昭和38年〜昭和44年(サラリーマン・蛇の目時代)

〔蛇の目時代〕
 卒業前に高校前の床屋に行き坊主頭を五分刈りにしてもらった。校則では長髪は認められていなかったのと幼少の頃からずうっと坊主頭だったので少し大人の気分がした。
さて入社が決まって一週間の導入教育を受けた。教育マニュアルに則って社会人としての教育から第一歩が始まる。今思うと学生から社会人へ頭を切り替える大事な期間だったように思える。
その間に適性検査などがあって私の初めての職場は製造部工作課第4工作係に配属された。会議室から職場へ向かうとき付き添いの鈴木部長が“小泉君は細かい仕事に向いてるようなのでこの職場になりました”と。内心設計に携わる仕事でなくてよかったと安心した。実は製図に関わる仕事は高校時代から苦手で単位もやっとの思いで取れたいきさつがある。部長から課長そして係長へ、主任から組長へとバトンタッチされいよいよ職場へと案内された。
年上の人たちに囲まれ一通りの挨拶を済ますと組長から職場での仕事の内容を聞き‘平面研磨盤’という機械の担当を仰せつかった。ここでは工場内で使われる治工具の製作から精度を要求される検査具を主につくっていた。旋盤、フライス盤等の機械は高校の実習の際に習って知っていたが‘平面研磨盤’は初めて。清水組長の熱心な指導の下で日を重ねていくうちに習得することが出来た。
どうにか環境にも仕事にも慣れて一年が経ち、新卒者が入りローテーションで私は製造部組立課に転属になった。今まで10数人のおじさんばかりの職場から一転、広くて女性が目立つ職場に代わった。いくつもの組み立てラインがあって配属された鹿目班(鹿目組長以下10人位)でも同様あらゆるミシンの組立を規則正しく流れ作業をこなした。
最初は物珍しさもあって指先や動作も機敏に動くのだが、正直毎日の単純作業を楽しく継続していくのにどう取り組んだらいいのか考える日が多かった。鹿目組長が気を利かしてかどうかあらゆるラインの部署に入らせてくれて仕事を覚えさせてくれた。

 その頃工場内で‘提案制度’なるものが出来て作業改善等効率化を図ることと従業員に意識の高揚を図る意味をあわせて是非皆さんも参加して欲しい旨朝礼時に話があった。1級は1万円で5級まであり、5級は確か500円だったように記憶しているが工場内の掲示板に張り出される月例の成績表には4,5級が多くてたまに3級があると珍しくて近寄ってみたりもした。
時期を同じくして母が胆石の手術をし一時は快方に向かったもののその時輸血に使用された血が当時問題になった黄色い血と呼ばれたものが母を黄疸へと追いやった。それからというもの病状はますます悪くなり父以下全員が交代で病室で寝泊まりすることになった。
仕事の方は欠勤することなく普段と変わりはなかったが、ある朝いつもの朝礼で鹿目組長から雑誌“暮らしの手帳”で各社のミシンの性能テスト内容が掲載されているとの話を受けた。私は興味があり仕事の帰りに本屋に立ち寄り、その本を買い求めた。
自分達の作っているミシンが世間でどう評価されているのかに関心があったのかも知れない。結果ブラザー、蛇の目は比較的高い評価を受けていたがリッカーは無残だった。
あれこれ読んでいるうちにミシン機能の欠点の中に針の落ちる部分の手元を照らすランプが下糸の入ったボビンケースを取ろうとヒンジ式滑り板を上げると光が遮られて暗いところでは用を成さないとの指摘があった。
私は自宅にあったミシンを取り出し欠点の内容を認識した。その時即座にヒンジの支点を変えればという発想がわいて白紙に簡単な図を書いてみた。‘見えるじゃない’のと一人悦に入って厚紙を切ってサンプルを用意し、翌朝組長に提出した。
それから1,2ヶ月経ったある日組長に呼ばれ研究部から電話があって急いでだれだれさんのところに行って欲しいと言われ何事だろうと行って見ると例の“ヒンジ式滑り板”の件だった。“残念だけど長野の専門メーカー”(アガツマ製作所)が君と同じことを考えていて数日違いで特許庁へ申請されてしまった”とのこと。
誰でも考えつくことだし仕方がないなと思った反面、こんなことでも評価されるのかと思ったら嬉しくなってきた。
職場に戻り上司に報告するとえらく同情してくれた。当人の私は相槌を打ちながら事の大きさに気づかないでいただけなのかも知れないがそれほどのショックはなかった。
むしろ私にはかけがえのない母の容体の方が気がかりだった。体力をつけてもう一度手術をすれば治ることを信じた。しかし願いもむなしく9月19日母は帰らぬ人となってしまった。

 仕事は相変らずの単純作業だったが時々課内実習で塗装課とか部品組立へと行かされて広く浅く知識を身につけることが出来た。
例の提出した提案書類の一件も忘れかけていた頃突然上司に呼ばれ“ヒンジ式滑り板”は2級になったことを知らされた。思いもかけぬことで改めて工場長室へ呼ばれ高木工場長から賞状と賞金5千円を手渡された時は緊張した。結局は会社への貢献にはならなかったが上層部ではこういうことを考えた従業員がいるということを評価してくれたのかも知れない。
それから6ヶ月が経ちそろそろ転属の時期がきたので今度はどこへ配属されるのかなと日々考えるようになってきた。
と、そんなある日上司から通達が来た。技術研究所勤務。
最近研究部が独立して高尾に移転になったことは知っていたが私には縁のない遠い存在であった。3年目の最後のローテーション先が研究所とは・・・まったく想像もしていなかったことだけに不安がいっぱいだった。大卒、大学院卒のエリート集団という印象の強い環境下で私にどんな仕事が与えられるのか本当に不安だった。何故なら何一つとして自信を持ってこれは私に任せて下さいといえるものがないのである。
初めに配属された‘商品研究’(小室室長)での初仕事は外国雑誌から抜粋したミシンの特集記事の翻訳である。私は辞書と首っ引きで翻訳がスムーズな日本文に代わることを希望した。でも一日かけても出来上がらない、家に持ち帰って夜遅くまでかかっても未だ出来ない。専門用語も未だ理解していないことも大きな致命傷だった。
翌日午後上司に提出したが一瞥してこの件は終わった。私は試されているのだとその時思った。
数日後総務職以外の全社員(3,40名)が食堂に集められた。これからテストをするという。実力とか学力といったものではなく、その人にどれだけの創造性があるかという内容のものである。提唱者は小室室長。これも後から考えると私がどれほどの者かを知りたかったのか?とにかく入って10ヶ月ほどは散々な結果内容であったことを記憶している。職場では私が最年少者ということもあって誰からもかわいがられた。高校の大先輩も同じ職場にいたお蔭で貴重な仕事のアドバイスも受けた。
ただ一人小室室長だけには一つの壁が出来ているようでどうも馴染めなかった。
仕事は主に機構や部品の耐久テストとかもあったがミシンのテーブルに関する試験項目が多かった。
自分なりに一生懸命やってきた甲斐があって、あるとき小室室長から認められた言葉をもらえ努力が報われた気がしてきて嬉しかった。22歳のときである。
仕事にもある程度慣れてきた頃室長に呼ばれ転属の話が出た。‘開発研究’で君が欲しいと。その話が出たとき途端に目の前が真っ暗になった。今更後悔しても始まらないが、とうとう私の最も苦手な設計製図の部署に回される羽目になってしまった。

2階の‘開発研究’に入ると8人位の部屋で皆ドラフター(製図機)の前で静かに図面を書いている。最後列の羽生室長(後の研究所長、常務取締役)のところで面談。
私は恐れ多くて、場違いの所に来てしまった感があって落ち着かなかった。
質問されることに答えていた私は初め自ら口を開いた。“設計製図が苦手で期待を裏切るかも知れない”と。すると“心配無用、私がわかるまで教えます”多忙な人にもかかわらず何と2ヶ月もの間就業時間が終わってから2時間を私の教育時間に当てて下さったのである。
 最初の仕事はよく覚えている。当時流行った横長タイプのステレオ型のデラックスミシンテーブルの開発である。格納されるミシンを小指の力でも取り出せて、しまう時にも自然とゆっくり収納できる機構を考えること。これは定荷重ばねをつくること。さぁ大変!いきなりばねの耐重計算か・・幸い一人ではなくベテランの柿沼さんが手伝ってくれることになった。そのためにばねの工場にも連れて行ってもらい参考にさせてもらった。よくよく考えてみると羽生室長と柿沼さんが大半やって下さり後から室長から書類を渡され“ここにサインをして”と言われるまま目を通すとなんと特許申請の為の会社への譲渡用紙だった。さすがに断ったが一緒にやったのだからと言われ結局室長の好意に甘えることにした。
その他ミシン部分の上フタがレバー一つで開きミシンを格納する時もそのレバーが兼用する装置も実用新案を申請し後に認可された。デザインは隣室の内田さんが担当し図面は私が担当した。そして試作品の製作は小金工場に隣接している関連会社の東海木工(後の蛇の目精器)が受け持ち数ヶ月の後期を無事終了した。がしかし京橋にある本社での営業会議での結果、ステレオ型ミシンテーブルは不採用となり永久に世に出ることはなかった。
その後いくつかのたて型ミシン用テーブルを手掛けたが、1年前に蛇の目100%出資の台湾工場(台中市)が稼動を始め第2号機となるフルジグザグのミシンの設計を任された。
私にとって忘れる事の出来ない仕事である。イタリアS社のミシンを参考に徹底的に簡単な構造でしかもきちんと機能を成す製品に仕上げること。このときも室長の完全バックアップなしでは図面は仕上がらなかったが、書き上げた図面で部品が出来上がりそれを自分の手で組み立てミシンを動かしてみる。不具合が出たら図面を修正し完成させる。
何台か試作品を作るとき工場組立課に行き担当者と作業性等を話し合い最終図面を完成させる。家に帰っても仕事のことが頭から離れなかった。
‘開発研究’では各人が年間の業務スケジュールが与えられているのでやりやすかった。私は恵まれた環境下で素晴らしい個性豊な人たちに囲まれてのびのびと仕事をさせてもらっていたように思う。
仕事以外でも私には‘卓球’があった。高校時代1年先輩の高橋さんが工場にいたお蔭で共に卓球部を復活させ自らマネージャーを買って出てポスターを掲示板に貼らせてもらい部員募集から始めた。一時は40数名の部員を抱え2台しかない卓球台で週2回の活動でやりくりに大変だった。小金井市卓球連盟にも加入し社外の試合にも積極的に参加し又、会社親善試合も挙行した。6年後つまり私が退職する数日前に関連会社の蛇の目精器、蛇の目電機、蛇の目精密、そして後に蛇の目研究所、本社にも呼びかけ全社をあげて卓球大会をしたことも忘れられない思い出だ。
その他蛇の目の組合50周年記念祭では研究所から‘私の秘密’の劇を演出したり、パントマイムを演じてみたり、会社の旅行といえば幹事をやり、2度の運動会にも仮装行列、400mリレーに出たり私の場合仕事以外の方で知名度はあったのではないかと思う。
とにかく私の青春は蛇の目時代に凝縮されていたようだ。

そんな自分にも転機がやってきた。今から思うと私の行動は派手に振舞っていたわりに心中穏やかざる思いが充満していた。そのことを誰にも言えず一人悩んでいた。
ある日次兄・志津男に相談したところ“会社の看板をはずして一人でもやっていけるか?”と訊かれた。確固たる勝算はなかったが自分が変わる、自分が自分らしく生きていくには25歳という節目は一番良いと考えた。
尊敬していた羽生室長に何と話を切り出したらいいのだろう。何日も考え自問自答を繰り返しながら悩んでいた。そんな自分を感づかれてしまい羽生室長に心境を打ち明けた。所長室内の田宮所長の前で不覚にもぼろぼろ涙を流してしまった。
“25歳を機に自分の人生にチャレンジしてみたい”
昭和44年12月10日私の蛇の目の青春は終わった。
羽生室長にはわざわざ府中の実家まで来ていただき父を交えて慰留に努めてくださり、又所内でも会うと必ず声をかけてくださり最後の最後まで説得いただき心から申し訳なく思いご厚情に感謝せずにはいられない。