昭和52年〜昭和54年(ペンションの支配人)
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〔職場復帰〕 昭和52年9月 三和に戻った。2年振りの復職である。設計部門の三和技研(株)は退職していたがサービス部門の(株)三和商事でのペンション経営は稼動するまでとりあえず仕事は社長付きで2,3ヶ月の間雑用だった。そのうちペンションの建設計画概要と人事が決まり内示を受けた。思いがけなかったのは社内最古参の奥村さんが支配人として赴任するとのことだった。性格的に適不適があるが私から見てどうしても合点がいかなかった。しかし社内で一人浮いた存在になっていた彼を社長は今までの労苦に報いる為にも男にしてあげたかったのかも知れない。そんなことも11月から1年間現地の大野ペンションに修行に出させたことで社長の意図がうかがえる。三和技研にヘッドハンティングで入社した岩崎さん(新日鉄関連の設計チーフ)、杉浦さん(石川島播磨重工業の設計チーフ)そして若手の台頭で番頭役の奥村さんとの衝突を避けたこと、又業績が順調だったことで彼の給料を払いながら1年間遊学させる余裕も会社にあったのだと思う。私へのあてつけかなとも思える程の社長の言動だったが私にとって周囲がどう見ようとも蛇の目を辞めたときに最もやりたかったサービス業の施設の運営が形はどうであれその仕事に携わることが出来ることで満足だった。 〔斑尾高原みすずペンション〕 昭和53年12月初旬、オープンと同時に最初のお客様が東京昭島市の啓明学園の中学生一行40数名で先生が引率して訪れた。積雪も期待したほど多くなく心配されていたが運良く翌日から降り始め何とか目的のスキーは楽しんでもらえることが出来た。 このシーズン社長夫人のお陰で厨房の方は切り抜けられたもののいつまでも滞在するわけにもいかず今後の人事について本社での会議の結果私は支配人として留任、宮武社長の実の弟・邦雄さんご夫妻の管理人としての赴任が決定した。邦雄さんご夫妻にお子さんがいなかったこと、身内であることが選ばれた理由と思うが今の仕事をを辞めて遠い長野の地に赴任することについては相当の決心を要したことと思う。お二人とは谷保に住んでいた頃からの知り合いでお互いに気心は知れていた。個人的には良い人選だったと内心ほっとした。 一介のサラリーマンだった宮武社長が部下二人を伴い立ち上げた設計請負業の仕事は国内経済の発展とともに右肩上がりに成長していった。谷保駅近くに土地を買い設計事務所としての2階建て本社が完成した。仕事量が多くなって近くに貸家や貸事務所を借りて人も増えていった。そして念願のペンション経営もてがけるといった30代にして実業家としての道を順調に歩いていたかに思えた。少なくとも私が在職中、会社は益々発展し社長の言動に自信が満ち溢れていた。唯一気になっていたことは人の助言や提案を聞き入れなくなってきたこと。人を信用できなくなってきたことも孤立へ拍車をかけていった。会社は独立採算とはいえペンションへの投資が母体の設計部門へかなりの負担となってきたことは否定できない。休職前は社長に対してイエスマンだった私が復職後社長の言動の変化に一々矛盾を感じるようになってきてしまった。社長室で二人きりになると私が声高に意見を言ったり激論を交わすことも少なくなかった。ペンション経営は机上の計算通りにはいかない事を社長にもっとわかって欲しかった。 それから数年後邦夫ご夫妻も社長との意見が合わずペンション管理人を辞することになり以前住んでいた谷保に居を移した。みすずペンションは売りに出たがバブルが崩壊した後だけになかなか買い手がつかず数年間空き家状態だったが、2500万円という超破格値で現在のオーナーに引き渡されたことを後で聞かされた。 |