台湾一周自転車紀行

〔台湾一周自転車紀行〕  1970.1.21〜2.7
 先日台北の土産物屋の前で自転車を組み立てている時たった一つしかないラチェット式走行メーターを壊してしまい地図に記載されている距離でおおよその見当をつけて宿泊地も決めなければならない。。とはいえ一度も走ったことがないので道路状況もわからず、もしかしたらとんだアクシデント(事故)に遭遇するかも知れない。とにかく無理せず安全運転で行こう。

1月21日 
 7時けたたましい爆竹の音で目がさめた。朝食のパンとミルクをいただいた後、家族の皆さんに見送られ「基隆」の汪さん宅を出発した。
「基隆駅」前は人でごった返していた。徴兵制により適齢期の男子青年は数年間の軍事訓練を受けなければならない。見送りの為に来たと思われる家族や友人達が目を引いた。そしてその周辺では爆竹を鳴らしている。そんな光景が駅を中心にあちこちで爆竹を鳴らすものだからうるさいのは当然といえる。駅前で写真を撮ろうと自転車を下りると、好奇の目が私に向けられ囲まれないうちに駅を後にした。小さなトンネルを二つくぐり「八堵」から左へ左へと曲がっていたら元の所に出てしまった。最初にしてこんな状態だと後が思いやられる。郵便局があったので投函ついでに局員に道を尋ねた。中年以上の台湾人はかつての日本時代で日本教育を受けたので今でもしっかりとした日本語を話すことが出来る。
今度は大丈夫。「八堵」から「瑞芳」へ入った途端、アスファルトから地道へと代わり少しずつ上がり始める。民家も途切れて一人黙々とペダルをこぐ。昨日までいろいろな人と出会いおしゃべりをしていたことが嘘みたいに今は静寂な中で自分の息遣いだけが聞こえる。車も通らないし不気味な感じさえした。進路は「宜蘭」方面」で間違っていない。でもどうして車が通らなかったか疑問はすぐに解けた。峠を越えていざダウンヒルが出来る!と思ったら悪路が待っていた。道幅6メートルがほとんどぬかるみで自転車に乗れる状態ではなかった。途中タクシーが乗り捨ててあった。無理して乗った途端転倒してしまった。
出発早々自転車は泥だらけ靴もソックスも惨め、2キロぐらいはこんな悪路が続きタイヤとマッドガード(泥除け)の間に入った泥がこびり付いて走行困難になった。 

出発初日                  悪路に苦戦     洗車  2日目・礁渓にて    

 「仇分」から「頂變渓」間ではこんな状態が続いた。「福隆」に到着したのが午後2時半、まだまだ走れそうな時間だったが急ぐ旅でもないので今日は「福隆」泊り。駅前の「海都旅社」、主人は部屋代を35元のところ25元にしてくれた。焼きそば10元、てんぷら3元、豚肉4元これが食堂で食べた昼食である。因みに日本円と台湾元とは10:1なので計算しやすい。
旅社の主人といい食堂に集まったおじさん達は日本語が達者なので会話に不自由はなかった。明後日走るであろう「蘇花公路」について話題になり“危険だから他の交通を利用した方がいい・・・・”そういえば安芸さんも同じようなことを言っていた。そんなに危ない所なのか・・・

1月22日 
 7時半起床 猛烈な雨が軒下をたたいていた。昨日の食堂でチャーハン(6元)を食べた。食べ終えた皿に油がたくさん残っている。おいしいけれどもう少し油は控えめにして欲しい。雨が小降りになったのを見計らって8時半ポンチョをかぶって旅社を後にした。
「石城」からコースは南下、ちょうど雲がきれ暑い陽差しが照りつける。はるか西方にぽっかり浮かんだ「亀山島」が一緒にくっついて走ってくれているようだ。「頭城」まで海岸線を走っていくうちにタイヤとマッドガード間の泥が乾きだしてきてペダルを重くした。11時前「二城」でパンと牛乳を買う。牛乳だと思って買ったその飲み物は他の原料だったようで口に含んだ瞬間吐き出してしまうほどその味に馴染めなかった。ラベルをよく見ると牛乳でないことがわかった。
「二城」からの分かれ道、「台中」へ71公里「宜蘭」へ11公里(キロの意味)と書いた標識が目に入った。改めて云うまでもないのだが漢字だから地名も意味もわかるので漢字、英語のない国だったら恐らくノイローゼになってしまうかも知れない。
「礁渓」で機車行(オートバイ店)にとび込み蒸気での洗車を依頼。嬉しいことにお金を要求しないばかりか奥に通されお茶とみかんをいただいた。主人の日本語が流暢なのに驚いた。30分ほど雑談をして店を後にしたが前輪あたりで不快音がするのだが原因がわからずあれこれ考えながらノロノロ運転しているとオートバイに乗った地元の青年がたどたどしい日本語で声をかけてきた。
素直に事情を説明したがどこまで日本語を理解してくれているのか・・・。大丈夫だからと言って別れようとしたが彼は横に並びながら行先を尋ねてきた。「宜蘭」までと応えると「羅東」まで行かないかと誘われた。その気はなかったのだが彼の日本語の理解度にはなはだ疑わしく、もしかしたらとんでもない誤解を招く恐れがあったので彼に従うことにした。
彼は運転中片手を私の尻に当て後押ししてくれた。私はペダルを踏むことなく楽な走行を楽しんでいたがジープに乗った中年の男性から危ないからよしなさいと日本語でたしなめられた。反省!
「羅東」には午後3時ごろ到着。

            
               羅東在住の肉屋の林さん 食品市場
 
 


 「羅東」に着くなりすぐ私を知り合いの人が経営している日本食堂へ連れて行ってくれた。お腹が空いていたのと久しぶりの日本食、とりわけ味噌汁の味に満足した。
食堂のご主人と話していてやっと彼のことがわかってきた。林さんと云いお父さんが経営する精肉業に勤めていて今日は休みだという。同じ年頃と思うが日本語は両親が日常話していて聞きかじりで覚えたらしい。とにかく外交的で面倒見のいい人のようだ。外へ出ると洋服仕立て屋の游さん、化所品店の蔡さん、映画館経営のおかみさん・・・・彼の歩く後を自転車を押しながらついて行きいろいろな人を紹介された。皆気さくに日本語で私の訪問を歓迎してくれた。明日の予定を訊かれバスで「蘇花公路」を通ると言ったら運送会社へ行ってみようということになり久栄貨運へ向かった。
課長の簡さんを紹介され林さんの要請を快く引き受けてくれた。簡さんの名前、両親がつけてくれた「太郎」という名前のように大の日本びいきのようで自宅から程近い宿の手配も手際よくしてくれ夜は自宅に招かれ友人も誘ってスキヤキとお酒で歓待してくれた。
8時過ぎ大旅社(旅社より多少高級な宿)に戻り自転車をひっくり返して点検作業を始める。ここの主人の好意で玄関のロビーでさせてもらったのだが宿泊客や通りがかりの人が足を止めて私の作業に見入っていた。油が切れて困っていたところ主人が奥からミシン油を持ってきてくれた。
11時過ぎ浴槽で身体を洗いながら今日一日いろいろな事があったことを思い出していたところ林さんが再び訪ねてきた。これから食べに行こうという。身づくろいをしていっしょに外に出る。屋台で水餃子を食べて他の店で改めて食事する。その時私を待っていたらしい4人の新聞記者が1人の通訳を交えて質問を浴びせてきた。内容は台湾を自転車で一周することへの関心からだが職業を訊かれてちょっと困った。面倒なので学生とでも答えておこうかと一瞬思ったが後が厄介なので結局ありのままを話すことにした。退職してまだ1ヶ月とはいえ東九州山陽方面の自転車旅行から今日まで自分を探そうと旅に出ながら環境の変化で逆に自分を失いかけるところだった。

 記者のインタビューは私自身への問いかけをしてくれて感謝しなければいけない。それにしても誰がこんなことを仕組んだのかそれとなく林さんに聞いてみたところ仕立て屋の游さんであることがわかった。もう疲れた。部屋で休みたいと林さんに伝えた。午前1時就寝。

1月23日 
 4時20分起床 まだ外は暗い。軒下に鳥の巣でもあるのか夜中うるさかった。奥さんが起こしにきてくれた。38元の部屋代を払おうとすると林さんが払ったからといってお金は受け取らなかった。林さんには何から何まで世話になりっぱなしになってしまったがせめてものお礼にと「石垣島」で買っておいた日本の国旗に感謝と名前を書いて林さんに渡してもらうよう頼んで置いていった。こんなに親切にしてもらうなんて思っても見なかったので手土産は何も用意しなかったことを後悔した。
6時過ぎ簡さんがオートバイで迎えにきてくれた。ホロ付のトラックが会社前で待機していた。簡さんから運転手の陳さんと助手の林さんを紹介された。林さんは高砂族(アミ族)で日本語は達者である。家では今でも両親が会話を日本語でしているので自分は文字は書けないが会話では不自由はしないという。見かけでは二十歳そこそこのまじめそうな好青年である。簡さんに礼を言って久栄貨運のトラックの運転席に3人が乗り込み「蘇澳」に向かって出発した。

   
   蘇花公路 蘇花公路 蘇花公路・太魯閣

 「蘇澳」に着くとトラック、乗用車、バス、オートバイなど車が並んでいた。聞くところによると「蘇花公路」は道幅が狭い為「花蓮」側からの車と時間による一斉出発で全長114キロの中間点「和平」で上り下りの車が合流し通行を調整しているという。車が走り出し手掘りのトンネルをいくつも通過し東海岸側の絶景を眺めスリルを満喫した。雨が降ろうものなら崖崩れは頻繁に起こり通行止めになることも少なくないという。確かに危険な場所だが走ってみたいと思った。「和平」で出発の時間まで40分ほどの休憩があり用を足したり林さんが飲み物やチマキを買ってきてくれ車座になって会話が弾んだ。この道路は「日本」がかつて「台湾」を統治していた時代に完成したのだそうだ。花蓮台東方面は平野部が少ない上に公通面の不便さがあって開発も西部方面と比較すると大分遅れているとか。
トラックは花蓮営業所まで行くとかで私は途中「太魯閣」で下ろしてもらった。「羅東」を出発時荷台の自転車は荒縄できつく縛ったつもりだったがフレームが傷つきハンドルやサドルまでも中心からずれていた。揺れの激しさを物語っている。
走行に支障がなかったので彼らと別れた後「花蓮」に向かってペダルを踏んだ。「沖縄」で知り合った安芸さんから“「花連の新城村」に行ったら時計屋の陳さんに会ってみて”と言われていたので訪ねてみることにした。走り出して最初の村が「新城」だった。汗もかかないうちに着いてしまい物足りなかった。時計店はすぐに見つかった。ご主人の陳さんに会い安芸さんと「沖縄」で知り合ったこと、「台湾」での印象、また旅行中の忠告などを聞かされたことを話した。陳さんは突然飛び込んできた珍客に驚きながらも大層喜んでくれた。“遠来より友来るまた楽しからずや・・”を地で行くような光景だ。
挨拶を済ませたらさっさと立ち去るつもりでいたが奥さん共々強い要望に押され結局「新城村」で一泊することになった。「日本」のどこかにいそうなおじさんおばさんである。安芸さんと陳さんがどんな関わり合いなのかは忘れたがきっとご夫妻の温かい心に触れて郷愁を誘われたのかも知れない。「新城村」は有名な景勝地である「天祥」と「花蓮」の間に位置し道路も幅8メートルはあろうか思うが観光バス、乗用車はたくさん往来しているだけ、産業らしいものがないただの村に誰が気を止めるだろう。私も紹介を受けなかったら通り過ぎてしまうかも知れない。周囲の建物もどこか日本的な感じを受けたが木造の日本時代のままである。時計の針はまだ1時にもなっていなかったので先程行きかけた「太魯閣」へ戻って「天祥」へ行ってみることにした。台湾中央を横切り「台中」へつながる「東西横貫公路」の出発点でもある。車の往来も少なく広い道路を独り占めしながら緑豊な「花蓮」の郊外を黙々と走り続けた。今日は車に乗っていた分体力の消耗もなく足も軽く徐々に上り勾配になっても苦にならなかった。「天祥」から更に奥へ入っていくと渓谷があってそこは大理石の産出される宝庫だそうだ。行ってみたかったが雲行きが怪しくなり途中引き返すことにした。「渓畔」の近くにダムがあり写真を撮ろうとカメラを向けると近くにいた軍服を着た警備員らしき人が目に入り一応撮っていいか伺いを立てた。紙切れを取り出し撮ってもいいかといった意味のことを書いてジェスチャーを交えて説明するとOKのサインをしてくれたのでそれならばとシャッターを押そうとした途端、慌てて止められてしまった。変な話だ。とにかく「台湾」は今「中国」大陸とのにらめっこで臨戦体制がしかれているとのことで軍事施設はもちろんのこと海岸線、鉄道、ダムなどは撮影禁止になっていることは本を読んで知っていたのだが。。
雨に降られる前に大急ぎで「太魯閣」へ戻ると民族衣装を着た売り子のおばさん3人組につかまり絵葉書1組20元を買う羽目になった。「新城」に戻る途中郵便局があり切手を買った。「日本」の友達に絵葉書を出す為できれいな切手がたくさんあって目移りしてしまった。
旅社(22元)は「新城」にはたった1軒だけで陳さんの家の道路をはさんではす向かいにある。部屋で休んでいると陳さんが食事の誘いに見えた。一緒に店内を通り中に入ると奥さんの他に結婚したばかりの息子さんの嫁さんら3人も同席しこれから夕食が始まる。食卓には豚、七面鳥、スープ、魚、野菜、酒といった「台湾」の手料理がテーブルに所狭しと置かれている。私は親戚の家に来たつもりで遠慮せず底なしの食欲を見せた。おいしかった!陳さんご夫妻としか会話は出来なかったけれどご夫妻の日本時代の思い出話をたくさん聞かせてくれた。息子さんはタクシーの運転手をなさっているそうで会えなかったが嫁さんは小柄で美人、台所とテーブルを忙しく料理を運んでくれた。
その晩友人に手紙を書いていたところ胃がシクシクと痛み出し早めに休むことにした。

1月24日 
 暴飲暴食がたたって今朝も胃痛が収まらなかった。7時ごろ陳さんが朝食を誘いにきてくれたが事情を説明しもう少し休みたいと言うと通りに面している薬局に連れて行ってくれて薬を調合してその場で飲ませてくれた。仁丹のような味が口いっぱいに広がった。1時間ほど横になり安静にしていたら痛みも和らぎ陳さんのお宅へ出発の挨拶に行くと奥さんが特製の味噌汁を作って待っていてくれた。出された料理の方は遠慮したが味噌汁をいただいた。「日本」でいただく味とまったく変わらない本物のおいしさだった。ありがとう陳さん、「新城村」の周囲の方々も本当にやさしく日本語だけで生活できそうな不思議な連帯感を感じた。10時たくさんの人に見送られ私は東部最大の町「花蓮市」へ向かった。市内には広い平坦な道をのんびりと小1時間かけて到着。
 お世話になった久栄貨運の花蓮営業所を捜していると買い物かごを提げたおばさんから“どうしたの?”といきなり日本語で声をかけられた。営業所へ行く道がわからなくて捜してる事を告げるとおばさんたち3人があぁでもないこうでもないとしゃべっているうちに若い運転手が近寄ってきて“私が案内しよう”と車で先導してくれた。別れ際おばさんは時間があったら遊びにきてと自分の家を指差した。緊張感なんてまったくといっていい程なくて皆やたらと親切だ。そしてきさくに声をかけてくれる。警戒心なんてもたないのだろうか・・・。
営業所にはいくつかの通りを曲がって無事着いた。応対してくれた営業所の劉さんは簡さんとは親戚筋にあたるという。昨日簡さんが「花蓮」に行ったら必ず営業所へ寄って欲しいと言っていたが劉さんと会わせたかったのかな。彼は温厚で相手に安心感を与えてくれる好青年なのだが何せ言葉が通じない。他にも4,5人の従業員がいたが日本語の通じる人はいなかった。紙を持ち出してペンによる筆談が始まったがどうもまどろっこしくていけない。同じ顔をした元気な男が二人、机の上で中文と和文でやりあっている。漢字が唯一の共通点なので字を見て意思の疎通を図る。だが30分程こんなことしてたらいい加減嫌になってきた。私に語学力さえあればなぁ・・・。席を立ち失礼しようとしたら食事をしようと誘われた。胃を悪くして食べられない旨を紙に書くがどうも理解されてないらしい。なおもしつこく言われ根負けして彼の後を付いていく事にした。
「花蓮」では一番大きいといわれるレストランに入った。地下にあって喫茶店のような雰囲気のところで気持ちが落ち着ける。私はサンドイッチとホットミルクをお願いした。劉さんが思い出したようにポツリポツリと日本語を話し始めた。“これうまいか”“そうか”ワッハッハッ・・“もっと食べるか“これ日本あるか“そうか”ワッハッハッ・・とこんな調子だ。しかし紙とペンはいつも必要だった。食事後彼はアミ族の踊りを見ようと誘ってくれた。彼は仕事中を抜け出してきたのだし固く断ったのだが結局彼に押し切られてしまった。彼も自転車を調達して一緒に並んで走ったが話が通じなくなるといちいち自転車を止めて筆談をする。相槌のつもりでも“そうですね”とか“なるほど”といったような言葉でも彼はわからない言葉が出ると訊き返してくるのだ。話がちっとも前に進まない。走行しているうちに「アミ文化村」に着いてしまった。

         
 花蓮・アミ文化村にて  

 入場券を払って(彼が払ってくれたのだが)中に入ると土産売り場、民族館、踊り場があって芝生の広場では民族衣装に身をまとったアミ族の娘さん達がソフトボールに興じていた。我々が入っていくと何人かが笑顔で迎えてくれた。日本語で“コンニチハ”と挨拶してきた。彼女達と雑談をしているときは劉さんの存在などすっかり忘れてしまい悪いことをしてしまった。彼女達が巨人軍の王選手や歌手のジュディ.ウォングの話題を出してきたので最後に日本での活躍ぶりを称えると我が事のように喜んでいた。記念に彼女達と一緒にカメラに収まり帰ろうとしたところ今晩7時40分から踊りが始まるので是非見に来てと言われた。アミ族は台湾の原住民で9種族に分かれそれぞれの文化を築いている。中でもアミ族は最も平地民が多く農耕を主とした最も文化の発達した種族であると本に書いてあった。
営業所に戻ると主任が仕事先から帰っていて改めて挨拶をした。彼も日本語が通じず筆談に変わった。「羅東」の簡さんから既に話がいってたらしく宿は駅前の嘉南旅社に予約してくれた。自転車は営業所に預け部屋で休むことにした。どうやら胃痛も今朝の薬のお蔭で治まったようだ。6時半頃再び劉さんが迎えにきてくれ食事に誘われた。大事をとって食事は控えめにした。旅社に戻るとまもなく文化村行きの遊覧バスが迎えにくる。彼と一緒に同乗。このバスは各旅社を回って予約客を乗せて文化村へ向かうといった便利なバスである。
バスから降り出迎えのアミ族のの娘さん達に挨拶を交わし、案内された丸い小屋の観覧席に腰を下ろした。まもなくタオルとお茶が運ばれた。
上半身裸の精悍な男性は右手にに持つ長い棒を器用に操り、くりぬいた丸太を打ち付けリズムを取り始めるときれいに澄んだ声で唄い始めた。民族独特のというのか単純なメロディがどんどん心に染みてくる。若い踊り子達が歌にあわせ一生懸命そして楽しそうに踊ってくれた。彼女達の汗が感動を呼んだ。10数の曲目があったがその都度日本語、中国語、英語でアナウンスしてくれるのでわかりやすい。次々と衣装を変え舞台狭しと跳ね動き回る躍動感は見ている人達を魅了した。素晴らしかったに尽きる。この感動をどのように残したらいいかと考えていると劉さんが4枚組みのレコード60元もするのにポンと買ってくれた。
日本に帰ってからもいつでも聴ける。今日目の前で演じてくれた皆さんの素晴らしい歌と踊りそして照明の明かりできらきら光っていた汗を忘れることはないだろう。9時過ぎホテルに戻り劉さんと1時間ほど筆談。それでも意味がわからなくなると階下のカウンターに電話して日本語のわかる従業員をよんで通訳をしてもらったりして劉さんにはすっかりお世話になり散財かけてしまった。彼が帰った後興奮覚めやらぬうちにと知人友人に20枚の絵葉書を一気に書き上げた。雨が降り続いている。

1月25日 
 7時半起床 雨は明け方のうちに上がったようだ。8時過ぎに劉さんが迎えにくる。朝食を一緒にと昨日のレストランに入った。体調は良くなったが安全を期してパンとミルクにした。営業所で出発準備をしていると劉さんまたまた袋いっぱいにパンを買い込んできて昼食時食べるようにと持たされた。
従業員達の見送りを受け、国道に出るまでの約3キロを劉さんは道案内をしてくれた。驚いたことに彼の日本語がかなり通じるようになっていたことに気が付いた。別れるのが惜しいようなそんな気持ちにさせられたが、固い握手を交わしまた単身の旅を続けた。

花蓮郊外の廟 鳳林 花東線・踏切にて

 「鳳林」に着いたのが正午頃だった。
少年の乗っている自転車のペダルが外れ3人が寄ってたかって取り付けようと夢中になっていた。逆ねじであることを知らなかったらしい。
日本語で説明しながらスパナでしっかりと取り付けると彼らは突然現れた外国人に戸惑いを見せながらも私に何度も御礼を言っていた。良いことをすると気分がいい。「鳳林」も小さな村である。走っている私を見つけるといつまでもじっと見ている。誰からか日本語で声をかけられた。いつもならすまして通り過ぎるのだが停車しておじさんと雑談していた。たちまち群がる野次馬にびっくり、食事をしていかないかと誘われたが劉さんからもらったパンもあるし、先を急ぐことにした。
道路は舗装と半舗装の走りやすい路面である。道は花東線(花蓮台東間の鉄道)に沿って延びており時折道が鉄道上と重なっていてこれでは信号を横切るのではなく縦切ると云うのだろうか?くだらないことを考えながら走っていると後方から汽車の警笛が聞こえた。早くもなく遅くもなく汽車は[花蓮]へ向かっていた。機関士がこちらを見て手を振っている。素早くかぶっていたベレー帽を振って応えた。すると客車の窓からもたくさんの乗客が私に向かって手を振ってくれるではないか。これって映画のシーンにでもなりそうな情景で主役の私はドキドキしながら演じてしまった感じ。
今日の宿泊予定地・「玉里」までは一つの峠を越えるのだが苦もなく総体的には楽なコースである。ただ3匹の犬に吠えられしばらくは追いつかれまいと懸命にペダルを踏んだことで到着を早まらせた。「玉里」まで500メートル手前の長安旅社(20元)が目にとまり何となくそこに決めた。観光地でもない町外れで泊る日本人旅行者が珍しいのかびっくりするほどの野次馬が集まってしまいどうしてよいのかわからなかった。そこに日本語のわかるおじさんが通訳を買って出てあれこれと質問された。
この近辺を見渡すと日本の建物が立ち並んでいて当時を忍ばしてくれる。日本語のわかるおじさんは高い塔の下の建物を指差し日本時代ははあそこが軍の司令部だったと教えてくれた。町に出て一人で簡単な夕食を済ませ、部屋に戻って風呂に入ってさっぱりしたところで旅社の玄関に出てみると大人も子供もワッと群がり好奇の目が私に向けられた。30分もいただろうか、ますます人が増え恐くなって部屋に引っ込んでしまった。ベッドに入るまでせっせと絵葉書を書いた。

1月26日 
 7時起床 早々に旅社を立ち昨晩食べに行ったパン屋で朝食をとる。備え付けのジュークボックスで今流行しているポピュラーソングをリクエスト。
8時出発 「富里」には10時頃到着。牛乳が無性に飲みたくなり店の人に訊いてみたが「台東」まで行かないとないという。ちょうど屋台で果物を売っていたので一つ買って喉を潤す。「海端」では林業検査所でお茶をいただきながら所員と15分ほど雑談。雲が切れ上天気になった。走行中雨にやられることはなかったがいつも曇り空でほんとに久しぶりの感じがする。ふたたび走り出してしばらくすると後ろから来たオートバイに乗ったおじさんに声をかけられ100メートルほど先の建物を指差しながらあそこで休んでいかないかとまたまた誘われた。国道とはいえ車の往来や人通りも少なく声をかけられやすい環境であることは確かだ。ちょうど登山のとき人とすれ違うときみたいに。建物の近くに来て見ると農場事務所とあって砂糖キビとパイナップルをここに集めて出荷するという。他に職員が4人いたが皆日本語を話すので日本のどこかの農場に来てしまったような錯覚にとらわれてしまう。

パイナップル集荷場 台東食品工業 台東・知本からの海岸線

おじさんがパイナップルを持って事務所に入ってきた。時期ではないからうまくないよと言われたが今まで食べたどのパイナップルより甘くて舌でとろけるようだった。1人で半分ペロッと食べてしまった。別れ際に二つ持たせてくれた。1時間ぐらい居ただろうか、おじさん達の質問は今の日本はどうなのか、学生運動が盛んだけどどうなのかとか、社会面から文化に至るまで感じたままを話した。でも実のところ日本人でありながら無関心というかうまく話せないでいる自分がまどろっこしかった。もっともっと勉強しなければ・・・。
 熱い南国の太陽が容赦なく照りつける。砂利道の中ダンプや車が通るたびに砂埃が舞い上がり目を細めて走行を続けた。でも走り始めて30分もしないうちに一台のトラックが停車し、運転手が降りてきた。何事だろうと私も止まると彼は乗っていけと言う。体調もいいし走りたかったので丁重に断ったのだが彼は承服しない。遠慮しているのではないかと思われたらしい。中から更に2人降りてきてさっさと空っぽの荷台に自転車を担ぎ上げロープでくくりつけた。素早い!悪い人たちではなさそうなのでなすがままにしたのだが助手席に3人も乗ってしまって窮屈だったが町に近づいて来た時助手の1人が荷台の方に移った。運転手は40歳くらいだろうか、恐い目つきをしていたがなかなか親切な人で何かと気を使ってくれた。1時半頃「初鹿」で休憩し昼食をご馳走になった。久しぶりにお米を口にする。「新城」以来だが胃痛も収まったし問題はなかったのだが私だけパンにしてとは言える雰囲気ではなかった。車は「高雄」へ行くと言う。私は運転手に事情を話して自転車を荷台から下ろしてもらった。そのままだったら「高雄」まで行ってしまったかも知れない。彼の親切心を損なうまいとゆっくりとわかりやすい言葉で事情を説明した結果運転手がやっと理解してくれたのだ。
今晩の宿泊予定「台東」までは完全舗装、トラックに乗せて貰ったお蔭で思いのほか早く着いてしまった。宿を探そうと「台東駅」付近をキョロキョロしながら走っていたところ自転店の主人に呼び止められ店内で話し込んでしまった。店の前はまたまたすごい人だかりになってしまい主人が野次馬を追い払おうと幾度となく腰を上げた。4時頃だったか新聞記者と通訳が取材に来る。約20分ほどインタビューを受け店の前で写真をとって帰っていった。
「新栄旅社」(24元)に連れていかれお金は心配するなと言って主人は店に戻った。夕食事再び主人がやって来て店で一緒に食べようと誘ってくれた。料理屋から運ばれたお皿にはきれいに盛り付けされいておいしそう。店には次々とお客さんが見えて応対に忙しそう。そんな中でしっかりとした日本語で自転車を買い求めるお客さんがいた。ご主人も日本語で応対していた。ビックリ!主人こと歐さんのお店は自転車の販売と修理を営んでいるいわゆる普通の自転車屋さん。屋根が一つで2軒続きの建物になっていて隣は弟さんが経営している玩具とゲームセンター店である。弟さんも時々顔を見せるのだが言葉が通じないので会話の中に加われず通訳してもらいながらそばで我々のやり取りを興味深げに聞いていた。
 自転車を店で預かってもらい、歐さんは人力三輪車を呼んで肩を並べて夜の町を案内してくれた。日本時代の名残ともいえる建物がまだたくさん存在しどこか日本の田舎に来たような気分にさせられた。市内の照明は決して明るいとはいえないが風情があって心が洗われる。空を見上げると満天の星で更に感激してしまった。1時間の散歩だったが歐さんの若いときの話など織り交ぜて日本時代の素晴らしさを聞かされた。
10時過ぎ旅社に戻る。旅社の従業員が泥だらけの靴を磨いてくれた。1000円で買ったこの靴も連日の走行で大分くたびれている。どうせきれいにならないからといって断ったのだが気にするなと言ってせっせと泥を取り丹念にブラッシングをしてくれた。旅社に宿泊している4人の元気な青年達と少し覚えたての中国語をしゃべってみた。0時就寝

1月27日 
 7時起床 部屋の掃除に来た従業員のおばさんに掛け布団のたたみ方を教わった。紙で兜(帽子)を作るような折り方なのだ。どこの旅社でも大体同じたたみ方でベッドの端に布団の兜が置いてあるみたいだ。実に面白い。
朝食を歐さんに誘われていたので支度をして出かけようとしたところ「蘭嶼」という島に住んでいるおじさんがいて私に“時間があったら島に遊びにこないか”と島のPRを一席ぶたれた。話し方があまりに上手なので聞きほれてしまった。原住民ヤミ族の住む漁民の島でこのおじさんの正体は訊かずじまいだったが魅力を感じた。船は週1回の往来で我々が島へ行く為には政府から許可証を発行してもらわなければ上陸できないらしい。話に夢中になっていたら時間の経つのも忘れてしまい歐さんが迎えに来てくれた。歐さんは今日もランニングシャツに短パンスタイル、足は草履のような履物で実に身軽である。冬とはいえこれだけ暖かいのだ。8時半朝食の後歐さん達と再会を約して次の宿泊予定地「大武」へと出発した。走り出して間もなくオートバイに乗ったおじさんに日本語で呼び止められ今度「台東」に着たら是非来なさいと名刺を渡された。またしばらく走ると自転車に乗ったおじさんから中国語(台湾語?)で何やら言ってるのだがさっぱりわからない。そのおじさんが近くの会社の守衛を連れてきて何やら言ってさっさと行ってしまった。守衛のおじさんが日本語で工場見学していかないかと誘うのでせっかくだからと中へ入っていった。「台東食品工業」というこの辺では大きな会社だ。マッシュルームの製造元でアメリカへ90%輸出しているという。短パンにベレー帽をかぶった私のいでたちに若い女子従業員達の視線は痛かった。40分ほど事務所でお茶を飲みながら雑談し再びペダルを踏み出す。完全に舗装された道は実に走りやすい。
「知本温泉」は日本時代から有名な温泉地。しかし本道から外れ山へ向かって数キロ行かなければならずあえて行くのはやめて海岸線を走ることになった。
「太府里」あたりから私にぴったりとついて離れない中学生らしき3人組、彼らは普通の自転車なのにどんな上りでも下りでもしつこかった。悪気はないのだが言葉が通じないので気味が悪い。
途中郵便配達のオートバイが通りかかったので彼に葉書を渡して投函をお願いしたところ快く引き受けてくれた。この辺はほとんど人家もなく少し心細かったがそれでも海の青さと汗をさらっと乾かしてくれそうな陽気にサイクリングの醍醐味を満喫させてくれた。上り坂を汗びっしょりになって走っていると1台の大型観光バスが故障で止まっている。客に呼び止められて雑談しているところにバスガイドがおしぼりを持ってきてくれた。なんという心遣いなんだ、私はすっかり感激してしまった。
先を急いで「大武」へと向かう。午後1時半駅前に到着。雑貨店に飛び込み生ジュース(5元)を一気に飲み干す。ここで売られているリスがとても愛くるしく籠付きで30元とは嘘みたいな値段。店の横の木陰で腰をおろして人待ち風のおじさん、張さんと親しくなった。日本びいきの典型というか顔も話し方もまるで日本人のようで本人盛んに日本に行ってみたいと繰り返し言っていた。ジープが来るから一緒に山に登ってみないかと誘われ面白そうなのでいっしょに待つことにした。しかしいくら待っても車は来ない。2時間待っている間さとうきび、ピーナッツ、みかんなどいただいた。結局車は来なかった。
責任を感じた張さんから今晩郷所(村役場)に一緒に泊らないかと誘われた。彼のオートバイの後をついて行った。
郷所のある「安朔」は「大武」より2キロ南下したところに位置している。張さんの自宅は「台東」にあり週5日はここ「安朔」で寝泊まりしているという。まだ陽も出ていたので洗濯をすることにした。たらいに水をいっぱいためシャツやズボン、靴下を突っ込んでゴシゴシやっていると見かねた張さんそんな洗い方ではきれいにならないよとばかり結局張さんが全部洗ってくれた。
郷所内を一通り案内され村役場分室そのものだった。事務室で「安朔」の郷長(村長)とか課長らと会談。日本人は懐かしいとばかり大いに歓迎された。
囲いのあるようなないような風呂で汗を流した後近くの食堂に行き課長と張さんと3人で夕食。はじめて台湾ビールを口にした。アサヒビールのような飲みやすいビールだった。ここでも食べ過ぎてしまった。胃痛の再発がなければよいが・・・。
張さん帰りがけにたくさんバナナを買い込み部屋で食べるようにいわれたが3本が限界。その後映画を誘われたが行く気がせず断った。夜空を見上げると昨日と同様星がこぼれ落ちそうにまぶしく輝いていた。今晩は少し寒い。寝るところは板の間にむしろを敷き一枚の掛け布団だけである。蚊帳の中に入り横になりながら張さんとY談に花を咲かせた。天井にヤモリがいた。蚊帳があるとはいえちょうど顔の上あたりにいたのでドキリ。やもりは蚊を食べるのだとか。背中が痛くて寝苦しかった。

1月28日 
 6時半起床 張さんに見送られ静かな「安朔」を7時出発。いよいよ東部とお別れだ。峠へ向かって走り出す。時間が早かったせいかほとんど人と会うことがなく野鳥の声だけが山に響き渡り、「基隆」を出発し峠を越えた時のようにどこまでも静寂でいろいろなことが頭の中をよぎる時でもある。
・・・・幸運にも自転車で来たことで、たくさんの台湾の人達と巡り会えた。台湾に来る前私はこんなに多くの人と関わりをもつなんて想像もしていなかった。感謝の気持ちを物やお金ではなく“ありがとう”の言葉で表す難しさを肌で感じ取った。またこんなにも温かく迎えてくれた台湾の人達とともに日本統治時代台湾に関わった日本人にも感謝の気持ちを忘れてはならない。今の私は皆さんの温情のなかで埋没することなく自分発見といつか自分らしい生き方を実践できたらと願うだけ。
さて今日は出発からいきなりの上り坂で戸惑ったが変速ギアを最大限活用してついに頂点・「壽峠」に到達できた。

張さん・安朔 壽峠・台東県と屏東県の県境 鵝鑿鼻

 [壽峠]は[台東県]と[屏東県]の県境にある。昨日走行中に出会った中学生?3人組ともばったり再会。これから友達のところへ行くのだという。3人組の中で1人だけ少し英語を話せる少年がいて私のつたない英語で他愛のない会話を楽しんだ。彼らと別れてしばらく峠で休むことにした。峠には商店らしき建物がいくつか並んでいてバスもここで停車して観光客も買い物をするらしい。てんぷらを揚げている店先を通り過ぎようとすると“どうぞ”と売り子が笑顔を振り撒いて勧めてくれた。はじめ遠慮していたがおいしくてついつい2つ3つといただいてしまった。
さていよいよ下り坂、風を切ってスピードを加速し観光バスと抜きつ抜かれつの競争、車中から学生がやんやの喝采と応援。「風港」にあっという間に着いてしまった。「風港」は左折すれば最南端の「鵝鑾鼻」へ、右折即ち北上は「台南」「高雄」方面になる。左折すればこの道に戻ってくることになるが時間もまだ早いし南下することにした。
「東城」から「恒春」へ、照りつける太陽にあごが上がりそう、この暑さには参った。疲れもあって途中店先のベンチを借りて一休みする回数が増えてきた。バスや乗用車は時々通るが道を歩いている人を見かけない。走っているとあっいたいた、あれ?あのおばさんむこう向いて何か怒鳴っている!灼熱の太陽下頭がおかしくなったんだろうか。だんだん距離が狭まってくる。どうかこっちを向かないでくれ、そんな気持ちで10メートルほどに近づいたとき思い切りペダルを踏んでその場を離れた。気味が悪かった。
「鵝鑒鼻」まではなだらかなアップダウンの完全舗装で実に快適な道である。1時半に到着。軍隊だろうか、立派な宿舎が目に付いた。ゲートの前を通り過ぎようとしたら銃を持った兵隊に声を掛けられた。かすかにそれは正しく日本語だ。驚いて彼の顔を見返すと笑みを浮かべていた。中へ入って休まないかというような手招きを受け私はそれに応じた。ドヤドヤと軍靴を鳴らしながら奥の部屋から出てきた兵士に囲まれ何やら言葉を掛けられたがさっぱりわからない。出されたお茶をゴクゴクと飲み干した。上官と見られる年配の人が通訳をつれてきた。和やかな雰囲気で会話も弾んだ。食事はまだかと訊かれ済んだと言うと残念そうに何やら言っていた。外に出て一緒に写真を撮る。
向かいにある土産店に入る。「台南」から観光に来たという張さん(51歳・文具店)が何かと世話をやいてくれた。コーラを飲み話しているうちに誘われるがまま彼ら3人と「墾丁公園」に行くことになった。小型運送者に彼らと一緒に自転車ごと便乗することになり、北へ数キロ進むと大自然の公園がある。

墾丁公園・屏東 食用アヒル・潮州 国道・屏東

自転車を一時預かり所に預け公園内を散歩。うっそうと生い茂った木立の中は日中なのに暗いが涼しくて気分爽快だ。歩くところは全面舗装で素晴らしい散歩コースである。この辺は大昔海中に沈んでいたらしく奇岩や海の化石も多数露出している。展望台に登る。東に太平洋、西に台湾海峡が一望できる。約1時間半の散歩の後公園を出て食堂に入った。そば10元、ぶたのスープ5元展望1元、入園料5元皆張さんの財布から出た。謝謝!(ありがとう)
4時半、張さんらと別れ今日の宿泊地「恒春」へと北上した。陽が西へ傾き始め海面に光が反射してとても美しかった。
5時15分頃「恒春」入りし太平旅社(25元)に落ち着く。食事をとりに外出、パン食が何より軽くていい。テーブルでのんびりと食べていると数人の兵隊が居り英語で話し掛けてみた。二十歳位の青年は大体片言でも英語なら通じるようだ。屋台のおじさんと旅社の人達とも気軽に日本語で会話が出来て楽しいひととき。旅社に入ると泊り客は気を使ってくれて私の前では日本語で会話してくれるのでありがたかった。
今日は良く走った。7時半頃ベッドに横になると何もする気がなくなりそのまま眠ってしまった。

1月29日 
 5時40分起床 早々と目を覚まし昨日の出来事を記録し7時に旅社を出た。
[坊寮」までは海岸線をずっと走ったが「屏東」に向かうため舗装された広い道を北上。延々と続くバナナ畑の間をのんびりペダルを踏みながら頭の中で考えをまとめるでなく何となく考えながら走っていた。時々車の中から手を振りそれに応えていた。中には追い越していく乗用車がわざわざUターンしてきて日本人と知って懐かしさを表情いっぱいに浮かべてしばし雑談に耽ることもあった。幅3メートルほどの川に黒いアヒルが数十羽水に戯れていたのに驚いた、川下で女の人が洗濯をしている。「潮州」で昼食をとる。ミルク2杯にトーストと揚げパンで6元50銭。
[屏東」市内は割合賑やかなところである。信号にも久しぶりにお目にかかった。気分的に余裕が出てきたせいもあって何だか思い切り暴れてみたい衝動にかられ卓球場を探した。地元の人に尋ねると一軒だけ、それもすぐ近くにあった。入ってみると卓球台はたったは1台だけ。よしやろう!急いで近くの宿を決め自転車も旅社に預けて卓球をやることにした。一時間10元。居合わせた高校生に相手をしてもらった。“我が青春に卓球あり”というには恥ずかしい技量だが中学から社会人までクラブといえば卓球一筋だったので愛着は消えていなかった。お互い初対面しかも言葉が通じない高校生と台を挟んで球を打ち合っている、自転車と違った汗をいっぱいかいて気分は最高。つたない英語でのやり取りだったが彼も昨年の夏休みを利用して本島一周を自転車で回ったと言いすっかり意気投合してしまった。彼が書いた紀行文のコピーをわざわざ旅社に届けてくれた。そしてコースのアドバイスも忘れなかったが今走っている西側のコースは東側と比べて走りやすい、だけど車は制限速度を守らず無謀運転が多いので気をつけるようにと。
夕食後彼と一緒に自転車に乗って夜の町を散歩。自転車店にも寄ってみた。台湾でのサイクリング車はまだそんなに普及していないと思う。変速ギアも3段が最も多い位でドロップハンドルの自転車も店頭に1、2台飾られている程度だった。町の人にも売っていけといわれたが1万元(10万円・実際はもっと高かったが))するといったらビックリしていた。勿論いくらお金を積まれても売る気などサラサラないが・・。彼が私の自転車を乗せて欲しいと言うので快く貸すと近くを乗り回しながらワンダフル!を連発していた。
1月30日 
 7時半起床 旅社の女主人が親切な人で何かと気を使ってくれた。昨晩の夕食も従業員達と一緒にさせてもらって朝食も誘われたが申し訳なくて遠慮した。夕べ雨が降ったらしく路上が濡れていた。慌てて自転車を置いてある所に駆けつけて見るとビニールカバーがかけられてあった。なんと気のつく人だろう。何気ない心遣いは本当に嬉しい。さて女主人に「高雄」へ行く道を教わり旅社を後にしたが母親に見送られるような気分だった。
途中「澄清湖」に行ってみようと標識を注意深く見ながら走行、雨上がりの路面はどこまでもすがすがしく心を軽くした。

卓球場・屏東 高雄駅 澄清湖・高雄

 9時頃道路脇の食堂に入り朝食のチャーハンを注文。‘炒飯’の漢字はわかりやすくて知らない店に入ったらこれに限る。
みすぼらしい姿をした60歳位のおじさんが私のところにやって来て親しげに話し掛けてきた。台湾語だと思うがゆっくり丁寧に話してくれるのだがさっぱりわからない。そのうち思い出したように日本語を口にし始めた。“大和魂”だの“精神”がどうだとか話の中に日本語が混じっている内容を聞いていると第二次大戦時代のこと、日本統治時代のことを盛んに話しているらしい。おじさんあまりに真剣に話すものだからついうなづき相槌を打っていた。そのうちおじさん感極まって泣き出してしまった。私はどうしていいのかわからぬままおじさんの手を握って慰め励まそうと思ったのだが口ごもってしまい自分でも訳のわからないことを口走ってしまった。戦争の話になると気が重い。日本人精神と言われても今の私に理解し尽くせない言葉だ。
「澄清湖」入口警察官と他愛ない雑談。自転車預かり5元、入場料4元を払って入園。昨日行った「墾丁公園」も良かったが「澄清湖」はつくられた美というのか正に芸術的な素晴らしい公園である。憲兵にカメラを向けてシャッターを押した。その若い憲兵が慌てて走りより英語で注意された。平謝りに謝りその場は何とか見逃してくれたがこの先にも数人憲兵がいるから注意するように念を押された。
家族連れやアベックばかりで1人でボケッと歩いていてもちっとも面白くない。芝生で約一時間昼寝をした。風が強くてのんびりムードもぶち壊し。
「高雄」駅前から台南に向う道を確認しながら陽が落ちそうになる時間まで走ってみようと思い台湾最大の工業都市「高雄」を離れた。向かい風が強烈で思い通りに進まない。国道沿いには鉄工所や製材工場等大きな会社が建ち並び道の広さも20メートル以上の道幅だ。工場の塀にはいたるところに‘反共 反毛 大陸復光’の文字がでかでかと書いてある。
幅広の道もいつしか通常の8メートル幅の道に戻り単純な平坦な道を走りつづけた。夕方「陸光旅社」が目に入り今晩はそこに決めた。今までの旅社と違ってホテル並みの施設なのに30元とは安い。地下にある部屋へ案内されたが窓のない部屋って何となく気持ちが塞ぎがちになる。

1月31日 
 7時40分起床 旅社に泊った行商風の男性に朝食(豆乳にパン)をご馳走になり従業員達に見送られながら元気良く出発。今日もよい天気だが風が強い。「橋頭」から古都「台南」を経て更に北へ向かってひた走る。「新市」から「美化」に差し掛かるとき軽自動車が走っている自転車の横で止まった。自転車についている日の丸を見て日本人とわかったと言う。若いのに日本語が上手ですねと誉めたら“僕も日本人ですよ”と笑って応えた。「鹿児島」の青年で仕事でこちらに来ていると言う。これから「台中」まで帰るところだが乗っていかないかと誘われた。「台中」まで乗せてもらっては自転車旅行の意味がなくなると思い「嘉義」で下ろしほしいと頼んだ。久しぶりで日本人に会った嬉しさからいろいろ話がしたくて乗せてもらうことにしたが岡本青年(22歳)、彼は2ヶ月に1回出張で台湾に来ると言う。公用語の北京語は話せないが台湾語なら少し話せると言っていた。
今晩は彼の知っている「嘉義」駅前の旅社に決めた。彼と夜の町をドライブする。彼がひいきにしているという食堂へ連れて行ってくれた。店の主人を紹介された。蔡さんという、大の日本人びいきで私の訪問をとても喜んでくれた。自国の政治批判はタブーになっているのに彼は平気で公言するのだ。他にもお客がいるのにヒヤヒヤしながら聞いていた。仕事の手を休めては話に講ずる主人のうちに秘めた日本人意識とはいったい何なのだろう。私にはまだよくわからない。
ソバ2杯ご馳走になった。2時間もいただろうか、話に夢中になり時計を見てその早さで腰を上げた。風が冷たくて寒い。温度計を見たら10度だった。岡本青年と旅社の前で別れる。

澄清湖 食堂の蔡さん 食堂の店員

2月1日 
 「阿里山」に登ってみようかと思ったが目覚めが悪く行く気がなくなり「新高旅社」(30元)を後にした。途中昨晩行った蔡さんの食堂に寄ってみた。2月6日の旧正月を迎え多くの買い物客でごった返していた。人を掻き分けやっと蔡さんのお店に着く。豆乳とパン(油条)を食べお金を払おうとすると見苦しいことをするなと言って受け取ろうとしなかった。食堂で働いている店員達が写真を撮ってほしいとせがむ。言葉が通じなくて残念だったが無邪気で明るくて元気のよい娘さんたちだ。
蔡さんは忙しいのに店を空けて「彰化」へ行く道まで出て見送ってくれた。名残は尽きなかったけど再びペダルを踏んだ。見えなくなるまでいつまでも見送ってくれた蔡さんの姿が目に焼きつく。
「大林」の郵便局で葉書を投函。空腹ではないのに屋台のそば屋を見ると入りたくなる。1杯2元。食べ終わってまた走り屋台が目に入ると又1杯と何だか食い意地がはってきた。走っていると相変らず車の中から声援が飛んでくる。わき見運転して事故につながらければいいが・・・。
「西螺大橋」で止り写真を撮ってもらう。地元の人が興味深げに自転車を覗き込みあれこれ質問してくるのだがジェスチャーで言葉の代わりを果たした。わかったかな? 
この橋は車は有料トラックは20元、自転車は10元、約1キロの橋を渡りきると「員林」に入る。あまりにも穏やかな日和でついくちずさみたくなる程。「彰化」にはあと15キロなので3時頃には着いてしまいそうだ。屋台のおじさんと雑談しているうち「永靖」に住む曾さんのことを思い出した。彼の所に尋ねてみようとおじさんに住所の書いた紙切れを渡すと通り過ぎてしまったと言う。「永靖」へ約5キロなので引き返すことにした。曾さんとは「基隆」に向かう沖縄丸の船室で一緒になった人。あれから2週間も経っているので覚えているかどうか・・・。でもほんとに訪ねてくると思わなかったかも知れないし会ったらビックリするだろうな。
[永靖」は花苗園を経営しているところが多く曾さんのお宅はその一角で農作物を作っていた。農閑期になると「沖縄」に行ってパイナップル工場へ出稼ぎに行くのだそうだ。赤い煉瓦造りの家が密集し20世帯ぐらいが密集している。近所の人達が物珍しそうに寄ってくる。曾さんの日本語は沖縄で仕事をしながら覚えたとかで雰囲気と単語の羅列で意味が理解できる。裕福な家かどうかはわからないが日本で力仕事をしてお金を残したいと再三言っていた。近所の人の中には元学校長だった人とか農会主任をしてた人とか日本語の達者な人は日本の現況とか何とかあれこれと質問を浴びせてきた。30分程で帰るつもりだったが曾さんの強い要望に押し切られて今晩は泊めてもらうことにした。

曾さん・永靖 国道 黄さん

 夕食は例によって豪華そのもの、肉、野菜、米はすべて自給自足という。もっと食えもっと食えと勧められるがそんなに食べられるものではない。結局ご飯を3倍おかわりした。7時半、我々は野次馬に取り囲まれて落ち着いて話も出来ない有り様。
さて休む段になると「春秋花園」を経営している劉さん兄弟の部屋をあてがわれた。二段ベッドで床につく前兄さんと筆談をする。ゆっくり話してくれるのだがさっぱりわからない。筆談の中で「日月潭」へ誘われたがひとまず台北まで走り終えて時間が許せたら是非お願いしますと言って取り繕った。

2月2日 
 7時30分起床 寝返りを打つたびにベッドがギシギシと音がする。劉さん兄弟の寝返りもよく聞こえた。便所は家から50メートルほど離れた林の中に4つの個室がある。そのうち手前2つはドアがついており満室。他2つはドアがなく落ち着かなかった。
朝食を曾さんの所でいただく。台湾料理はおいしくて食が進むのだが豚の脂身の部分がどうも食べられない。無理矢理勧めるのでやっと一つだけおいしそうに食べた。
8時半地元の人達に見送られ出発。「露座大仏」と呼ばれる高さ22メートルもある大仏が見えると間もなく「彰化」市内へと差し掛かる。台北市土産屋の陳さんに紹介された黄さん宅を探す。奥さんが日本人だと言うことで少々興味もあった。
「彰化」駅から約2キロ、繁華街から外れた静かな所にある。黄さんの経営する工場があった。三葉工業といって小物部品を製造している。主に日本をはじめ東南アジアへ輸出している中小企業。10時半頃奥さんと初対面、ずうずうしいとは思ったが陳さんの紹介で伺ったことと旅行趣旨などを話しながら自己紹介を加えた。
ひと通り挨拶を済ませた後突然ピンポンをやりませんか?と奥さんに誘われ喜んで応じた。工場横に卓球台が設置されており2人の娘さん(中学2年生、小学5年生)も参加して行なわれた。英語、中国語、日本語が飛び交い大変楽しかった。
正午前奥さんから「台中」へ行くから一緒にどうぞと誘われ末娘と3人でタクシーに乗り込む。「台中」まで20キロ、道がいいのでタクシーも90キロのスピードを出して走る。市内の日本料理“富士”に通され座敷に上がってすし、味噌汁をご馳走になった。日本の歌がBGMで流れ内装も日本的で外国にいるとは思えない雰囲気だった。奥さんの話によると巨人軍の長島選手もこの店につれてきて大変喜ばれたとか。娘さんの行儀のよさに感心させられた。食後はショッピングで女性専科に入るときは遠慮して外で待つことにした。行き交う女性のファッションに気をつけてみるとミニスカートをはいた女性も見かけるが全体的に質素な感じを受けた。厚化粧の女性は見かけなかった、むしろスタイルはいいし健康的な印象。逆にキョロキョロしている私が変な格好をして立っているので好奇の目で見られていた。
2時過ぎタクシーで再び「彰化」に戻り駅前から人力三輪車で黄さん宅に帰った。既にご主人(三葉工業社長)も帰っており改めて挨拶を交わした。大変歓迎を受け恐縮してしまった。工場内を案内してくれたり、又卓球をしたり、歓談に耽ったり時間の経つのも忘れてしまった。4時半頃宿泊を「台中」市内でと思っていたので腰を上げると差し支えなかったら家に泊っていくよう勧められたがいくら何でも甘えすぎてはと適当な理由をつけてお暇しようとした。末娘がどうして泊らないのと母親を困らせた。記念に玄関前で一緒にカメラに収まった。幸せそうな家庭に触れ感謝の気持ちでいっぱいだ。
「台中」へ行く国道まで黄さんがオートバイで先導してくれた。太陽が西に沈みかけ自転車と自分のシルエットが長く映し出される頃懸命に「台中」へと急いだ。1時間で市内に入ったが泊るあてもないので「蛇の目ミシン」の工場へ行ってみようと思い立った。名前は中国名「車楽・・・」何とか云っていた。ちょうど日本企業の「三洋」が目に付いたので日本語のわかる人(10人中1人いた)に尋ねると電話帳をめくり調べてくれたが該当の名は見つからなかった。ミシン同業の「利沢ミシン」へ電話してくれたが6時を過ぎていたので守衛の人ではわからなかった。「台中市政府」に行くよう地図を書いてもらいすぐ走って問い合わせることにした。官庁は外省人(戦後大陸から渡って来た人)が多くて概して日本人には好感を持っていないと聞かされていたので警戒しながら恐る恐る入って行った。案の定日本語の通じる人がいない。そこであきらめず執拗に次から次へと尋ねてみて回った。その甲斐あって黄さんというおじさんを捕らえることが出来た。彼は「シンガーミシン」に電話をしてくれ場所の所在と地図を書いてもらえた。
その地図を頼りに5,6キロ走るとあたりの景色は一変する。暗かったが建物が急に少なくなってきて郊外に来ていることがわかる。教えられた目印がなかなか見つからずウロウロしていたら先程の黄さんが間違った道を教えてしまったとオートバイで追いかけてきてくれ結局一緒に探してくれた。畑の中の一本道を走り7時半ようやく「車楽美」の門の前に立つことが出来た。黄さんに深く礼を言って別れる。
工場内の寄宿舎には日本から技術指導に来ている小金井工場の湯浅さん、小宮さんら知り合いがいることは知っていた。突然の訪問で彼らを大層驚かしてしまった。食堂に通され湯浅さんがラーメンを作ってくれた。残り物の肉のフライがおいしくてテーブル上にあった他のおかずも全部平らげてしまった。
私の散髪嫌いは湯浅さんは知っている筈なのに行った方がいいと言われ世話になる手前断りきれず彼の運転する車に同乗し散髪に行った。若い女性ばかり10数人の従業員、店内は明るい雰囲気でまぶしかった。長めにカットしてほしいと頼んだが通じているのかいないのか、はさみでバサバサ切られた。ひざの上に自分の髪が積もっていくにつれ何だか悲しくなってきた。髭だけは剃るのをやめて貰った。だからちっともさっぱりしないが湯浅さんは以後何も言わなかった。「車楽美」に戻り、談話室で皆と雑談。風呂で汗を流した後談話室で3週間ぶりで日本の新聞に目を通す。(読売)新聞は2日遅れで届くらしい。東京は久しぶりに大雨に見舞われ「八王子」では124ミリの記録的な豪雨だったとか。
午前0時 湯浅さんの部屋で一緒に寝ることになる。
羽生さんが事前に連絡してくれた内容の手紙を見せてくれた。どこまで心の温かい人なのだろうと元上司に対し改めて感謝の気持ちを新たにした。

         

           車楽美縫衣公司正門 工場内
         
           工場内 寄宿舎

 
2月3日 
 7時起床 食堂で朝食はトースト,卵,牛乳。7時半頃責任者の三宅さんが出勤され簡単に挨拶。食後工場長室に行き約1時間ほど三宅さんと話す。入社試験での面接が初めての出会い,当時の試験官と応募者の立場だった。採用後当時三宅さんは小金井工場次長兼管理部長の要職にあり工場内で同時入社した高卒生同士で同期会をつくる際とか卓球部の発足に当たって交渉事に当たっていた関係で何かと世話になったいきさつがある。三宅さんは1年前に台湾の向上が稼動を始めた当初から責任者として当地に赴任された。
台湾国民の感情,工場での社員育成等の話から私の退職理由,将来のこと等を話した。小宮さんに工場内を案内してもらう。しばらくは直線縫いミシンの生産のみを行なう予定で組立工程に数台のミシン頭部が載っていたが本格的に生産ラインが稼動すまでにはあと2ヶ月くらいの期間が必要とのこと。機械工場,検査室,塗装工場など日本の小金井工場とは規模が違うが機械設備も日本から運んできたというだけあって立派な設備だった。
私が担当していたフルジグザグミシンもいずれは当工場で生産されるであろうが稼動を見ずして蛇の目を去った胸中はちょっと複雑なものがあった。
三宅さんが省議会に連れて行ってくれるというのでせっかくの機会でもあるし車に同乗した。10分そこそこの近いところにある。大砲椰子に囲まれたここ「霧峯」の省議会は台湾省の最高会議場である。三宅さんとは親しい間柄らしい洪秘書長に会わせてもらい緊張のひととき。日本語が達者で議事堂内の案内をしてもらいいろいろと説明を受ける。議長室の後ろには蒋介石総統の写真が掲げられていた。省議会前で記念撮影をして握手で別れた。
宿舎に戻り賄いのおばさんに洗濯機の使い方を教わりよごれた衣類を全部洗濯した。暑い陽射しをいっぱいに浴び物干しに架けた衣類は短時間で乾いてしまった。昼食にお汁粉を食べた。外で日光浴を兼ねて上半身裸で自転車の手入れを始める。喉が渇くと食堂でバナナをほお張り一休み後又外で作業を続ける,のんびりと3時間ほどかけて手入れをし5時には完了。

台湾省議会 台湾省議会 三宅さんと洪秘書長

 
 今晩は忘年会とかで全員市内の台中大酒店に向かう為私も乗用車に便乗し約束の10時まで市内で時間を潰すことになった。
「台中」市内で一番大きいデパート遠東百貨店に入ってみる。日本のデパートと比べてはいけないが庶民的な親しみを感じる。エレベーターが珍しいのか子供たちは上ったり下りたり彼らの格好の遊び道具になっている。トイレに入るとおばさんが椅子に座っている。小の方はお金は要らないが大の方は1元必要とのこと。隣りのデパートはテナント単位で入っていてそれぞれ独立して経営をしているらしい。土産店が多かったようだが何も買わなかった。
忘年会を終えた湯浅さんたちと店内でバッタリ会った。これから二次会でボーリング大会に行くという。嬉しいことに私も誘われた。会場は階上にあった。ここのボーリング場(保齢球)はまだオートメ化されておらず倒れたピンも専任の係りが一球終わるごとに調整していた。スコアも専任の係りがいて点数を記録してくれる。我々11名(内女性2名)は2レーンを独占し活気はあるがスコアがいずれも良くない。トップが100点で湯浅さん,私は90点で4位だった。
乗用車で宿舎に戻ったのは10時半を回っていた。湯浅さんのお手製うどんを食べ、残っていたお汁粉を全部平らげた後風呂に入り日本式の浴槽に深々と身を沈めた。談話室で新聞を見る。スポーツの話題から大相撲新横綱に玉の海と北の富士がなった。0時過ぎに布団に入る。

2月4日 
 7時10分起床 枕元に餞別と書いた封筒の中に1000元,缶詰,風邪薬,「豊原」へ向かう地図が一緒に置いてあった。私が寝付いた後に用意してくれたに違いない。感激のあまり自分はどうしていいのかオロオロするばかり。湯浅さんには泊めて貰ったばかりか食事まで心配させた上に餞別までもくれるなんて。朝食を共にし8時半頃三宅さんらに挨拶した後門の所で湯浅さんに見送られて濃霧の中を出発した。前方10メートル先も見えずライトをつけて走った。市内の眼鏡屋で度なしめがねを買う。55元を50元にしてくれた。店の主人と30分程立ち話。旧正月を間近に控え町の通りは活気に満ち溢れていた。「救国団」に行ってみようとUターンしてゲートをくぐった。学生達が英語で歓待してくれた。自転車を預け彼ら4人とジープをチャーターして「台中公園」を案内される。彼らに私を中国人に似ているという。昨晩も湯浅さんにからかわれたが現地の人に言われると信憑性がある。
10階建てのビルの屋上から見下ろす市内は都会にふさわしくビルが建ち並んでいる。
ジープで救国団事務所に戻り先生や他の学生達とも英語で歓談。皆で円卓を囲み旅行の話をしながら中国料理をいただく。12時半頃一緒に記念写真を撮りその場を離れた。
北風が少し強まり前進を阻まれた。「三義」まで行きたかったが「豊原」止まりとなってしまった。まだ2時半だが旅社探しでキョロキョロしていたら学生が英語で話かけてきて事情を告げるとお安い御用とばかり案内してくれた。「東方大旅社」40元、商店街の中にあってちょっと騒々しいかな。バナナ3元50銭,南京豆,パンなどを買い込み部屋でモグモグ。1時間ほど昼寝をした後日記を書き始める。7時半頃食事を一緒にしないかと旅社の従業員から誘いがあったが先程のおやつが多すぎたせいか空腹感まるでなくて丁重に断った。羽生さんに手紙を書く。0時近くまでかかったが外での爆竹の音がますますうるさく鳴り響き気になった。2度3度階下のカウンターに下りて行きフロントの女性と筆談。この騒ぎは1時半まで続くという。あきらめて布団に潜った。今夜も冷え込む。おまけに一枚の掛け布団が小さくて身体をすぼめていなければならなかった。

    大学生達と 救国団台中支部 国道

2月5日 
 7時起床 早朝“パンパンパン・・・”とあちこちで鳴り響く爆竹の音でゆっくり寝てもいられない。8時ごろには旅社を後にした。
「新竹」へ向かって走り出して間もなく自転車に乗った婦人に日本語で呼び止められた。日本人と最も親しかったといわれる高砂族の人で外省人と結婚してこの付近に住んでいると言う。寄って行かないかと誘われたが走り出したばかりなので遠慮することにした。道は高低があって程々に汗をかいて静まっての繰り返し。
「三義」は彫刻の名産だと湯浅さんに教えられていたのでちょっと荷物になるが自転車を停めて買い物をすることにした。300元の予算で200元の買い物。「苗栗」に着いたのが昼頃だった。食堂でチャーハン,スープと万頭〆て12元なり。
走り始めると又声をかけられた。オートバイに乗った30代のおじさんだ。英語で親しげに話してくる。あまり気乗りしなかったがこの先だからというのでついて行った。菓子店を経営しており「苗栗」駅からすぐ近くだった。話の内容は“テフロンの日本での製造元及び製法等についての資料がほしい,彼の兄さんの工場でテフロンの加工品を扱いたい”というのだ。テフロン加工の製品(フライパン,アイロンなど)は見たことがあるが専門分野ではないし興味もないと答えてしまった。尚も熱心に食い下がってくるので閉口してしまった。
4時過ぎちょうど台湾硝子公司(旭硝子系列)前を通りかかったところ退勤時間だったのかドヤドヤと門から従業員が出てきた。自転車で出てきた青年に英語で呼びかけられしばらく一緒に並んで話しているうちに“明日は新年だから今晩は家に来ないか”と言う。“悪いからいいです”と断るが執拗に誘ってくる。そこに前方に停まっている車からカメラを構えている人がいた。だんだん近づいてみると何と湯浅さんら一行だった。思わぬところでの再会だ。小宮さん,七海さん,内田さんらの顔も見えた。路上で立ち話を別れた後,彼の熱心さに根負けして今晩はお世話になることにした。

苗栗市内 国道・苗栗 彭さん親子・新竹 彭さんの兄さんと孫・新竹

この付近の建物は日本時代の木造の家がたくさん残っている。彭さんの家も例外ではなかった。
兄弟一同が集まるとかで早速彼の兄さんにあたる彭さんの家に呼ばれた。10数人の親族の方が集まり大きなテーブルには鶏,七面鳥やら中国料理があふれんばかりに食卓を飾っていた。彭さんは日本語が達者だ。昔の戦友と今も手紙のやり取りをしているとかで手紙やアルバムを持ってきて見せてくれた。私の来訪を心から歓迎してくれ、日本に帰ったら昔世話になったという3人の仲間の住所をメモし消息を調べてほしいと頼まれた。
8時半過ぎ弟の彭さんと一緒に自分の家に戻り彼の親友2人も交えて布団の上座って日本の事情とか旅行の話をしたり代わりに台湾情勢などを聞かせてもらった。全て英語なので言葉がわからなくなると筆談で意思の疎通が図れた。11頃友達が帰り彭さんと一つ布団にもぐりこむ。今晩は一段と寒い気がする。風がドアをたたく。彼とY談をしているうちいつしか眠りに落ちた。

2月6日 
 7時10分起床 晴 台湾では暦の1月1日より今日の旧正月の方が盛大だそうである。三が日は会社,学校等は休みだとか,それにしても昨日までの賑やかさはどこえやら一変して静かな一日の始まりである。と思っていたらあちこちで爆竹が鳴り始める。朝食をいただいた後玄関先で写真を撮る。お土産やらお餅までもらってしまった。彭さんが「台北」方面への道まで出て見送ってくれた。腹いっぱいなのに先程もらったみかんや餅を食べながら走る。
駄菓子店が開いていた。キャラメルが食べたくなり自転車を停めて中に入ってみた。あれこれ物色しているとそばにいた客で来ていたおばさんに“日本人ですか?”といきなり尋ねられ“はい、そうです”と応えるとにっこり笑って“私も日本人ですよ”と思わぬ言葉が返ってきた。
“隣りの家だから休んでいきませんか?”と無理矢理手を引っ張って連れて行こうとした。気持ちは嬉しかったが満腹の上又食べさせられるのかと思ったら足がすくんでしまった。がおばさんの力のほうが強かった。主人も50歳ぐらいだろうが額がかなり頭のてっ辺まで達していた。主人の歓待ぶりは私が入り口を入るや否や飛びつかんばかりに喜び、早速戦争中のエピソードとか自分の歩んできた道を事細かに話してくれるのだった。「静岡」出身の方で戦前日本に一時帰国したが戦時中東南アジアを転戦しているうち戦争が終わり台湾に落ち着いてしまったこと。
戦争の悲劇,私の今回の旅行を通して思いもかけず戦争の落としてきた功罪を聞かされてきた。生の声をこんな形で聞くことが出来て少なからずショックだった。本当に戦争は嫌だ。さて丹那家の昼食の時間はすぐにやって来た。テーブル上に出された豪華な料理を勧めるご夫妻,真剣に断っているのに聞き入れてくれず涙が出そうだ。主人の話には切れ目がなかったが思い切って尻を上げることにした。 

         
           彭さん家付近     
彭さん一家

 
 レンガ製造で生計を立てているというが景気はあまりよくなさそう。今度日本の土を踏めるのはいつの日かその可能性がないと言いながら,私のような者と話をすることで日本に思いを馳せていたのではなかろうか。出来る事はして差し上げたいとその時思った。
家族の人達に見送られて又自転車を走らせた。主人が書いてくれた地図を頼りに「石門水庫」に行くことにした。「埔心」から右折して約20キロ,「石門水庫」は日本の技術者によって完成されたと言う。台湾北部の水がめである。3時ごろ到着、周囲を見渡すと咲いた梅の花がほんとにきれい。5時半ごろ「桃園」に到着、「芳春旅社」に泊まる。あれほどお腹がきつかったのに夜になると又決まったように食堂に足が向く。そば8元、ミルク3元、トースト3元、パン4元。

2月7日 
 7時30分起床 いよいよ今日は「台北」入り。8時40分旅社を出る。30元払うとチップを5元要求された。走り始めの時はは雲が多かったがやがて雲の切れ間からまぶしい太陽が顔を出し始める頃は「桃園」から上り切ってあとは下り一直線の時。バス停で並んでいる学生や通勤客と思われる人達の好奇心に満ちた視線を感じる。
約1キロの「中興大橋」(トラック10元,三輪車5元)を渡ると「台北」市内だ。「衝陽路」への道を交通整理をしているおまわりさんに英語で尋ねる。親切に教えてくれた。もうこの辺は交通量が多くて他の車にも気を配らなくてはいけない。
10時半土産店の陳さんの所に到着。1月17日この店先で自転車を組み立てて以来22日ぶりに戻ってきた。今日も正月休みでほとんどの店が閉まっていたがたまたま陳さんのお店のシャッターが半分開いていたので中に入って挨拶をする。斎藤さんの居場所の地図を書いてもらい大急ぎで会いに行った。幸い彼も在宅で一緒に食事をする。カツ丼と味噌汁うまかった。
斎藤さんは「新公園」裏のマンションの一室を借りこれから留学生活を過ごす。閑静な住宅街で環境もいい。部屋はバストイレ付で4坪ほどの小奇麗な部屋。食事は歩いて3,4分の所に日本料理を食べさせてくれる名前も「新東京食堂」という大衆食堂がある。私も台湾を離れるまでこの食堂にはずいぶん通った。安い上に本当にうまかった。主人の劉さんは40代後半だろうかお客さんがいないときはよく戦時中のことを話してくれた。「高雄」の海軍に所属していた時コックをしていた劉さんの思い出の中に当時防衛庁長官?だった中曽根康弘氏と同じ部隊でよく知っていると後日話してくれた。

  
桃園駅前 住宅街に流れる川 斎藤さん(国学院大卒)    新東京食堂の劉さん

 
 斎藤さんと「新公園」を散歩しながら旅行での体験談を話した。「基隆」を出発して「台北」に到着するまでの18日間アクシデントといえば食べ過ぎてお腹を壊したこと位で終始マイペースの走行で快適な一周であった。思いがけなかったことはこれほど日本人が敬愛されていることを身をもって感じ取ることが出来た事。日清戦争によって台湾が日本に帰属して約50年という長い歳月を統治していた。恨まれることはあっても決して感謝なんてされる事はないと思っていた。しかし私の初めての台湾訪問を自転車で一周したことと,バス,鉄道等交通機関を利用して各地を回り、現地の人と直接交流が図れたことは何よりも貴重な経験であった。1月16日初めて台湾の地に足を踏み入れ2月22日現地を離れるまでの38日間は自転車旅行を中心に様々な経験をさせてもらった。日本を離れてみてよかったと思う。やはり頭の中であれこれ考えているばかりでなく行動することによって道が開けてくる時もあるということを実感した。
安芸さん,斎藤さんをはじめ日本企業のスタッフ並びに台湾の皆々さん本当にありがとうございました。

オーダーメイド車(キャリアを外した状態) おばあちゃんと孫・台北 お留守番?・台北
さとうきびを売る屋台・苗栗 獅子舞・基隆 裏町の商店街・台北

 2月24日
「石垣島」を経由して午前10時泊港で下船。前回お世話になった「YH玉園荘」まで自転車を走らせた。船内で知り合った旅行者数人とYHで合流し彼らと夜更けまで騒いでいたら隣りの部屋から苦情が出た。ネパールから,香港から旅行先は様々だが旅の思い出話は尽きなかった。
中には「東京羽村」市出身石川さんは拓殖大4年生、彼は一年留年して日本一周自転車旅行を敢行、しかし「沖縄」でアルバイト中に愛車を盗まれ中断せざるを得なかった不運としか云い様のない人もいる。
 YH春海荘へ行ってみた。私が所属しているサークル・「G多摩」には立ち寄り先の住所を教えていたのでもしかしたらと思い尋ねてみると、案の定私宛に仲間達から寄せ書き形式で3通も手紙がきていた。仲間達の顔が浮かんでくる。部屋に戻り何度も読み返してしまった。

G多摩の仲間達(1) G多摩の仲間達(2) G多摩の仲間達(3) 四マン・・・・オクレ

 お金も底を付き始めた。当初の持参金はUS$200(72,000円相当)と11,000円だった。お土産さえ買わなかったら充分足りたはずなのだが物珍しさもあってムササビの剥製、LP海賊版、木彫りの置物それから沖縄ではペンダント時計、,万年筆等、物によっては船便で送ったりしたがカバンにいっぱいだった。そんな訳で苦肉の策で「府中」実家の父あてに電報を打ち送金してもらった。
「沖縄」では同様自転車で一周したり、「琉球大学サイクリングクラブ」に招かれて2時間の講演をして感謝された。

田舎でのスナップ さとうきびを積むトラック 守礼の門
沖縄サイクリング 沖縄サイクリング 琉球大学サイクリンクラブメンバーと

 3月4日
いよいよ[沖縄]を離れる日。朝YHでペアレント以下アルバイトの女性、同宿のホステラー達に見送られて一路[那覇港]へ走った。
正午ドラの合図で「おとひめ丸」は静かに岸壁を離れた。音楽と共にたくさんのテープが飛び交う中で私を呼ぶ声が聞こえる。久高さんだ。彼はガールフレンドを連れて見送りに来てくれた。昨日「琉球大」で講演を依頼した大学生である。彼とは先月晴海港から乗船した際同じキャビンだったこともあって話す機会もあり“台湾から帰ったら学校で講演をしてほしい”と頼まれていた。約束を果たせてよかったが、見送りに来てくれて余計嬉しかった。