昭和44年〜昭和45年(充電期間)

〔充電期間〕
 風来坊の私、取敢えずは家を出ていろいろ考えてみたかった。
家にいると父と些細なことから口論となってしまう。長男の兄嫁は我々のことをとても気遣ってくれとてもありがたかった。定年まで全うし勤め上げた父は私の転職を快く思わなかったが耳を傾ける私ではなかった。この機会に最も近い外国・台湾を自転車で一周してみようとも思った。自転車は既に 7月に出来上がっていた。数ヶ月前に調布にある神金自転車商会へ初めて行き親父さん(森田社長を私はこう呼んでいる)に“世界一周に耐えられるキャンピング車を作って欲しい”と製作を依頼した。何日か通って相談し約3ヵ月後7月26日に念願の自転車が出来上がった。それまで愛用していた既成のサイクリング車と違ってタイヤ(650B)が太くフレーム材質もクロモリ(Cr-Mo鋼)に代わって比較的軽い。しかも折りたたみが出来る構造にしてもらった。それでいてこの重厚感はキャンピング車のもつ貫禄か。何よりも身長に合わせフレームをつくってもらえるのがオーダーメードの特徴だ。詳しいメーカー部品は親父さん任せだったが世界に2台とない自分だけの自転車にすっかり満足した。。とにかく嬉しくて休みになると高尾山へよくトレーニングがてら登ることが多かった。もちろん府中の実家からペダルをこぐのだが。又長距離では長野の野反湖を目指して橋の下にテント張って野 営をしたりとにかく有り余る体力に任せあらゆる所へ出かけた。
             
      長野・富士見峠 宮崎・霧島高原

 ある日YH新聞に霧島高原ユースホステルで研修生募集の掲載が目にとまった。所属していたG多摩(立川市・会員数40数名)を通じてホステリングやサークル活動をしていくうちユースホステルの理念や思想にぞっこんほれ込みいつか自分も大自然の素晴らしい地で旅人を迎える建物をつくりそこのペアレントになることを夢見た。もちろんそんな資金も実力もあるわけではないしあくまで夢に過ぎないが少しでも近づきたいと思う気持ちは強かった。当時日記を書いていたが久しぶりに開いてみたら5月にG多摩に入会した頃ほほ時期を同じにして退職を考えていたことになる。会に入ったきっかけはYH新聞だが今思うと別の世界に身を置いて会員達と語り一緒に活動しながら自分を見つめてみたかったのかも知れない。
結局はその年12月蛇の目を自己退職をしたが漠然と3年ぐらいどこかのユースホステルでヘルパーとして住み込みでユースホステルの経営、運営を勉強できたらよいかなと思っていたところそんな募集広告が気になって宮崎へ足を運ぶことにした。来年1月台湾へ行くことを決めていたのでトレーニングを兼ねて自転車で行くことにした。交通手段は晴海から鹿児島まで船を利用する。12月16日出港し波之上丸は2日後の早朝鹿児島に着いた。霧島ユースホステルへの道のりは思いのほか近くて走行メ−タ−は61キロに過ぎなかった。この日の宿泊者は私一人、その晩9時頃ペアレントの古木さんが帰ってこられた。“1時間ほど話をしたが規則が厳格すぎてYHの姿としてはよいのかもしれないがぼくは古木カラーについていけない・・・”その日の日記にこれだけしか記してないので内容まで書いておけば良かったと後悔している。(威張り腐っていたあの老ペアレントはもうこの世にはいないだろうがその後どうなっているのかちょっと気になってホームページを検索してみたところ既にペンションは12年前に廃業していた。)
 翌朝宮崎婦人会館、別府YH、普門院へ泊りながら北上し関門トンネルを越えて太平洋側に進路をとりYHをはしごした。29日米原駅で自転車をたたみ新幹線で帰京するまでひたすらYHに馴染み部屋では国内外の旅行者と語り合った。走行距離1117キロ、体力作りは万全、自転車も問題なし、ただYHについて初日の個性派ペアレントとの出会いが後の各宿泊施設のペアレント達(サブ、ヘルパー)と共通しているかと心配したが霧島・・とは違っていたようで安心した。霧島高原YHで研修は受けなくてもたくさんのYHとペアレントの考え方又スタイルを見るのも大事かなと思い始めた。
        

          
         見送りにきてくれた仲間達 とうきょう丸  東京・晴海港

 初めての海外旅行初めての「台湾」を私は船を利用し「沖縄」経由で「基隆港」を上陸するコースを選択した。年が明けて1月10日「晴海港」にはG多摩の仲間や自転車の友人らに見送られ静かに岸壁を離れた。今回の渡航にあたりパスポートはもちろん「沖縄」に入るにもビザが必要だった。
「那覇港」到着までの2日間2等船室のキャビンで隣り合わせた沖縄青年と親しくなりいろいろ雑談していくうちに私はうかつにも“アイヌの人と似ているが沖縄は何か関係があるのか?”素朴な疑問を投げかけたとき温厚な彼がきっとした真顔で私に“沖縄に入ったら二度と口にしてはいけない”と注意された。彼のプライドを損ねたようで反省している。
船は途中シケに遭い船室から丸い小窓から外を見ると大荒れで時折波が甲板から船内の階段をつたって入ってきた。輪行袋に入った自転車を階段の手すりに縛っておいたのを思い出し慌てて場所を移動しようと波しぶきを浴びながら作業していたところ周囲でゲーゲーしている様を見てしまい私も船酔いを始め慌ててトイレに駆け込んだ。木の葉のように揺れ波任せの船は頼りなくも思ったがそれでも無事岸壁に横付けになりタラップを下りてからもしばらくは身体が揺れて歩き方がぎこちなかった。
最初の宿泊地「花園YH
で同室の青年は昼間だというのに布団の中で眠り込んでいたので言葉を交わすことがなかった。夕食を済ませ戻ってみると彼は何事もなかったかように挨拶を交わした。安芸青年といい中大4年生卒業記念にと台湾を自転車で回ったのだという。実は私もこれから自転車で一周する旨を告げるといろいろとアドバイスをしてくれた。商社への就職が決まっている彼は中国語が堪能のようでその晩遅くまで会話のレッスンを受けた。お蔭で簡単な台湾地図だけを頼りに乗り込もうとしていた私には心強い予備知識を習得することが出来た。又別れしなもし台湾で困ったことがあったら誰々に相談するといいと何人かの名前と住所を書いた紙切れを渡された。
YHを後にして「石垣島」経由「基隆」行きの船に乗船。この間の船より小さく感じ先日のシケがなければよいがと一人案じた。早々とキャビンに荷を置いて甲板から客が続々乗船する様を眺めていると同世代の日本青年がたくさんの荷物をかかえて乗り込んできた。まだまだ荷物はあるようで引き返しては次々と運んでいた。私も手伝った。訊ねてみると台湾の大学にパスしたので留学するのだという。秋田出身の彼、国学院大学を卒業し一年留年した後「台北師範大学」へ晴れて入学が決まったのだ。斎藤さんと云い後の私の進路に大きく関わり合いを持った人だ。キャビンでは彼の他ドイツ人の若いカップル、「沖縄」のホテルで働いている台湾人、それと同じく「沖縄」で農場を手伝っている台湾人数名が一緒だった。周囲の人たちとすぐ打ち解けてドイツ人には彼らの世界一周の旅のエピソードを聞かせてもらったり台湾の人には現地の事情など日本語で聞かせてくれた。何と人懐っこい人達ばかりである。斎藤さんは言う。“人口の5分の一を有する中国人の話す言葉を覚えておけば将来きっと役に立つ”と。私は英語英語と思っていたが彼の話には一つ一つ納得ができた。安芸さんといい斎藤さんといい同じ年令とは思えぬエネルギッシュでしっかりとした将来像をもっている。私はといえばこれから自分を探しに旅をする。
石垣島までの船旅は最高だった。海はどこまでも穏やかで夜甲板に出てみると生暖かい風が心地よかった。さて石垣島出港後しばらくすると悪夢の再来、船は揺れ始めた。斎藤さんと私はじっと横たわっているしかなかった。あちこちでゲーゲーやっている中、食事時間になって配膳されると近くにいた農家出身の台湾人達だけがお盆をひざの上に置き食べ始めた。なんとたくましい根性!台湾の「基隆港」に到着。税関の荷物検査のところで引っかかり輪行袋に収められた自転車だけはどうしても許可されず保管扱いとなってしまった。さぁ困った、走れなかったらどうしよう・・安芸さんはこんなときどう対処したのか。そういえばYHで彼の自転車を見かけなかったけど。後でわかったことだが私は持ってきた自転車を国内で売るのではないかと疑われたらしい。着いたその晩キャビンで知り合った台湾人のホテルマンの勧めで自宅に泊めてもらうことした。市内に住んでいて車で5分とかからない山の手に住まいはあった。
翌朝爆竹の音で目がさめた。近所の青年が兵役の為に家を出るときに爆竹を鳴らして送るのだそうだ。中文で来台目的と自転を持ち帰るという誓約書を家人に書いてもらってその書類と交換に自転車を引き取った。ハイソックスにニッカポッカ、長シャツはカラフルでいかにもサイクリングをやりに来ましたといういでたちなのに商人と間違われるなんて。一方テープレコーダー、カラーテレビ等家電製品とかタイプライター等持ち込んだ斎藤さんはというと朝9時に待ち合わせて税関に行ったが書類を手にあちこち所内を奔走していた。後で聞いたら税金3500元請求され一時間近く粘った末2400元(24000円)になったと話してくれた。彼も語学が堪能なのでうらやましかった。ところで彼と「台北」に向かうことになったがここでもタクシーの運ちゃんと料金の交渉し100元のところを70元に値切った。言葉が出来るって強い。彼の話によると何でも値切ってみることらしい。私には言葉の壁があるのでフーンとただ聞いているしかなかった。
「新公園」に近い「衡陽路」のお土産屋の前でタクシーを下りた。彼の親しい友人らしい。さんといって恰幅のいい店主、奥さん共々素晴らしい日本語を話す。挨拶を済ませた後店主に自転車の組立を店先でやって欲しいと頼まれ作業を始めるとたちまち人だかりの山が出来、完成する頃には広い道路も人垣で車の渋滞が起きるほどだった。組み立ての際走行メーターを取り付ける時に力を入れすぎて壊してしまい使用不可能にしてしまった。ガックリ!自転車はどこにであるものだが目の前で20分そこそこの短時間で仕上がる作業が面白かったのかそれと出来上がった自転車に15段変速ギア(当時台湾では3段ギアが最多)が付いていたり両サイドにバッグが付いていたので珍しかったのかも知れない。とにかく人だかりは私がその場を離れるまで引かなかった。さんのスクーターの後を追って斎藤さんが宿泊している旅社(安宿)へ連れて行ってもらった。私も今晩は同じ旅社にする。あいにく彼は不在だったが疲れもあって仮眠をとった。空腹に目を覚まし斎藤さんの部屋に電話をかけたが未だ帰ってない。私は外に出てパン屋を探し当て習いたての中国語で“ウォヤオマイチェカ、トオサオチェン“(これ欲しいんだけどいくらですか)“・・・・・・・”通じなかった。ショック!私は自信を喪失して何も買わずに部屋に戻った。そしてひたすら斎藤さんの帰りを待った。そんな台北の一日目だった。
台湾を一周する前私は台北の郊外・「陽明山」へ足慣らしに走ったり又少しでも街の雰囲気に慣れようと3日ほど市内を走ったりした。困ったことに自転車を止めようものならすぐに人の輪の中心に自分がいて勝手に動くことが出来なかった。好奇心の固まりというか日本では考えられない光景だ。ただ台湾の人たちがいかに日本人に対して親日的であるか後々訪台を繰り返してたくさんの台湾人と関わりをもつようになって理解できるようになった。
4日後の1月20日出発を「基隆」と決め再び初日に世話になったさん宅を訪ねるとまた今晩も泊る羽目になった。現地で台湾全島の地図を買い時計回りに国道を主に走りざっと1400キロの道のりを時間をかけても3週間くらいとみて日程を組んだ。

〔台湾一周自転車紀行〕(to “台湾一周自転車紀行”ページ)

〔アルバイト〕
 3月初旬に鹿児島経由で東京に戻った後自分がどう変わったか等を記憶をたどって書き留めてみたい。
 約1ヶ月ほどは家にこもったまま部屋で旅行記やら写真を整理したり礼状を書いていた。当時長兄・玉置一家が府中の実家に入り家事のこと一切を切盛りしていた。父は別として玉置兄や義姉は私の居候的存在に対して一切口出ししなかったが腹の中ではおそらく不快に思っていたかもしれない。毎月食費と称していくらかのお金を入れていたとはいえ昼も私の為に食事を用意しなければならずサラリーマン家庭の家で昼間も大の大人がどっかりと居座っていては邪魔な存在だったと今は感じる。蛇の目を辞めて立て続けに旅に出てひたすら環境の変化を求めてみたものの家にいて誰かの世話になっている生活に変わりがない限り自分も変わらないと思った。結論がないままちょっと外へ出て働きながら考えるのもいいかもしれないと思い新聞の募集記事で職を探した。
池袋にある大理石磨きとあったが清掃塗装業だった。都内の大手ビルの会社の外壁掃除を5,6人でするのだがホースとブラシできれいに洗い流した後スプレーで同色に塗りなおす作業、1週間で仕事は終わったがすぐ辞めた。
次は吉祥寺にある職業ミシンのメーカーで旭ミシン工業に入り4ヶ月ほど勤めた。普通乗用車位の大きさはある大型特殊ミシンで3,4人がかりで組み立てるのだが一台数百万もする機械だそうだ。一台は納品したがその後は受注がなくオーバーホール(分解掃除)の仕事がいくつかあっただけ。いつも眉間にしわを寄せ、時に大声で社員に罵声を飛ばす社長はそんな不況下気が気ではなかったのだろう。この会社も8月いっぱいで辞めた。この間北日本を自転車で回る計画は少しずつ具体化され9月5日いよいよ出発の日を迎えた。旅行中自分自身何らかの答えが見つけられたら自転車旅行は止めにしようと決めていた。自分探しの旅が果たしてどんな答えで返ってくるのかまったく想像できない。そして約2ヶ月の時間を費やし得たものを一言で云ってしまえば精神力、体力を養えたこと以外に夢と現実の狭間に身をおいて一人で出来ることなんて所詮この程度の行動力でしかないことがわかった。いやこの行動力こそがいかに大事かということがわかった。 
自転車旅行に限られたことではなく多かれ少なかれ皆同じようなことで悩み苦しんできた時期があったと思う。私のようにやりたいことが出来るだけでも幸せだと思わなければ罰が当たりそうだ。

〔北日本一周自転車紀行〕(to “北日本一周自転車紀行”ページ)


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