『気ままなメモ』コーナー


2008.6.29馬籠峠にて

《小泉 驥(こいずみ たけし)プロフィール》
 昭和19年9月29日東京都北区王子で生まれる。
父 サラリーマン日本電電公社(現NTT) 母 専業主婦 共に明治生まれ、山梨出身。3人の兄の下4男で末っ子。現在両親、長兄が他界し次兄・志津男はスポーツジャーナリスト兼作家業、バレーボールの著書等多数、TVアニメ「ドンチャック物語」TVドラマ「アタッカーYOU!」原作者。現在地域のボランティア活動に参加し活躍中。町田市在住72歳。
3兄・は某一流会社を定年退職した後好きな胡蝶蘭の苗の培養をはじめ新種の開発を手がけている。ホームページを開設し最近通販も行っている。府中在住69歳。
私は35歳当時脱サラを決心し今の事業を手掛け今日に至る。
身長 180cm、 体重90kg、 血液AB型、 運命学 食神、 家族構成 妻、長女そしてバーニーズマウンティンドッグ。
※愛犬・アクロスは2009年1月29日永眠。10年と3日の生涯だった。      

〔驥という名前〕
 政治家犬養 毅(いぬかい つよし)にあやかって‘つよし’を‘たけし’と読んで役所に届けようとしたが知人の京都出身の坊さんがこの字を使ったらこの子はきっと親不孝すると言われたそうで代わりにその人が‘驥’としたらよい,ということで決まったらしい。
確か私が20代前半に父に尋ねたときの話である。呼び名は平凡だが漢字が難しくて子供の頃なかなか書けなかった。
ただ,、この‘’という意味が大変良くて辞書で調べると以下の通り:
 一日千里を走る名馬
 才能や器量が周囲から逸脱したもの
 才能のすぐれた大人物
 威風堂々として凛々しいさま
 一気呵成に物事なし得るもの
 疾風迅雷の勢いを現すもの
 勇猛果敢に突き進むさま

〔両親のこと〕
 母 壽江(としえ)昭和39年9月肝硬変で59歳の若さで他界した。私が19歳のときである。末っ子の私にとっては母は最も大切な存在だった。他の誰よりも一番かわいがられたのではないかと思う。兄や幼友達から言われるので否定はしない。反面しつけも厳しく小学生の頃まで‘ほうとう’(山梨の名産)をつくる直径6センチ長さ1メートル位の麺棒でよく殴られたことを記憶している。どうして怒られたのかは憶えていないが悪かったのは確かである。又教育熱心でPTA役員,婦人会の会長とか近所の人達の世話もよくしていた。
亡くなる2年前住み慣れた東村山の電電公社の宿舎から府中市の新築に移り住み、定年間近の父とこれからゆっくりと老後の生活を楽しもうとしていた矢先だった。私のショックは大きかったがそれ以上に父の失望は計り知れない。毎日同じ部屋で寝ていたのでよくわかる。でも未熟な私には何もしてやれず反対に気持ちとは裏腹にひどい言葉でなじってしまうのが常だった。
 父 (なおし)平成元年6月癌で亡くなった。享年86歳。晩年は3年間ずっと入院生活だったので病院での面会が多かったが、既に口は利けない状態だったが私が婚約者(さゆり)と両親を連れて病室に入って話をしたところ父はわかったらしく私達をじっと見据えながらうなずき気持を表してくれた。別れ際彼女のお父さんが父の手をしっかりと握ってくれたことがとても嬉しかった。‘孝行したい時に親はなし’とはよくい
ったもので私にとって悔いの残ることである。 
両親の墓は多摩霊園にあるが結婚後は月1回の割合で家族で出かけている。いつからか毎朝遺影に向かって水の交換と線香を用意し,感謝の気持ちを込めて手を合わせることを日課としている。

〔学生時代〕
 小学校の頃私の成績は芳しくなかった。5単位の3ばかりだったので学力優秀な兄達といつも比較され悔しかった。
“お前はやれば出来るんだからもっとしっかりしなさい”もう耳にたこが出来るほど云われたことを覚えている。
中学に入ってからは少しはましな成績がとれるようになった。
高校受験が近づいたある日のこと母に将来大学へ行くつもりかどうかということ訊かれた。
私は二つ返事で高校を出たら社会人になりたいと答えた。目的があるわけではなくただ大学へ行ってまで勉強をしたいとは思わなかった。
母にしてみれば親心からの質問だったかもしれないが決して楽ではない家計から学費を捻出することは大変なことだったと思うし私の答えを聞いて多分ほっとしたのではないかと思う。
第一志望校は都立の普通高校,第二志望は私立の工業高校(機械課程)で両方合格通知をもらったとき、敢えて第二志望校を選んだ。三兄・は都立の工業高校へ行っていたので学費の高さに親は恐らく驚いたのではないかと思う。
そして卒業前の夏ごろから就職活動が盛んになり私も数社受けに行った。結局最初に内定の知らせを受けた‘蛇の目ミシン工業’小金井工場に就職することにした。
さて何をしたいのか、社会人になったらどうすべきか、どのように自分が変わっていくのかまるで見当がつかず何も考えられない自分だった。

〔職歴〕
●昭和38年4月 
 蛇の目ミシン工業株式会社入社 初任給 税込み1万3千円 小金井工場製造部工作課第4工作係に配属され平面研磨機を担当し工場内で使用する治工具検査具等の製作に従事。翌年製造部組立課に転属,ミシンのあらゆる機種の組立ラインに入って流れ作業を体験。その間部品組立、塗装課等製造部内の課内実習1年半後高尾にある技術研究所に転属、所内では商品研究でミシン・テーブル等の商品試験が主な仕事で常にレポートの作成が日常業務だった。
その後開発研究に移り、始めはミシン用テーブルの設計が主な仕事だったが台湾で製造するフルジグザグミシンの設計も任されるに至る。

●昭和44年12月
 25歳を機に退職を決意。
当時ユースホステル活動を通じ憧れていたことは現場のユースホステルに従事できる仕事だった。

●昭和45年10月
 三和技研株式会社入社 請負設計(日本製鋼所,石川島播磨重工業、新日本製鉄等)が主な業務。面接時社長との約束で将来“命の洗濯の場”を提供できる施設(山小屋類)の事業進出にあたり夢の実現を目指して今ある技術をもって資金をためようと不本意ながら再び設計製図の世界に入った。昭和50年なかなか腰をあげない社長に郷を煮やし退職を申し出るが、話し合いの結果休職扱いとなりその間自費で中国語の勉強の為台湾に渡る。

●昭和52年10月  
 職場復帰、関連会社株式会社三和商事の社長付きで総務に属し翌年オープン予定のペンション建設準備に関わる。
●昭和52年12月
 斑尾高原みすずペンション(敷地面積約500坪、60人収容)オープン、営業に配属になったが早々に初代支配人更迭された後支配人を兼務。
●昭和54年11月
 オーナー社長と運営上の意見対立が重なり退職。脱サラを決意。



●昭和55年1月  
 中野区野方に転居し有限会社小泉商会を設立。オリジナル商品を人件費の安い台湾で製造してもらい商品を輸入し国内の市場にて販売するところから始まる。

〔趣味〕
 サイクリング

   

 カラオケ

 私の青春時代はGSブームだった。カラオケで気分が乗ると今でも時々唄うことがある。

 

 

 

 

写真右 ソプラノ歌手・諸貫香恵子さん(小学校同級生)と
 ’04.5.3 さくら倶楽部にて

 コレクション
 子供の頃は記念切手収集をしていて30歳前半まで続いた。20歳代に所属していた旅のサークル「G多摩」で府中郵便局に勤務していたギバチこと  長田さんそして再就職先の三和技研・宮武社長が同様の趣味を共有していたこともあって大分集めたが台湾での生活費の足しにと大半を処分 してしまった。
 自転車グッズは脱サラ後仕事の関係で海外へ行った際買ってきたり、家族が私へのお土産にと買ってくれたりでいつのまにか集まっていった。